御開山が、法然聖人のお言葉を蒐集された『西方指南抄』という書物がある。
この書物の中に「正如房へつかわす御文」という女性に対する一文があるのだが、情愛がこもった、法然聖人の熱い息づかいが立ち上るような手紙である。
法然聖人は、醍醐本の『三心料簡および御法語」では、『阿弥陀経』の「一心不乱」を、
慕(こい)する人とは阿弥陀仏也、恋せらるる者とは我等也。
既に心を一向阿弥陀に発せば、早く仏の心と一に成る也。
ゆえに一心不乱と云。
と、釈されておられるが、単なる理論家ではなく、情愛にも通じた心の懐の深い方であったのだろう。
病床で死におののく正如房に、
「おなじ仏のくににまいりあひて、はちすのうえにて、このよのいふせさおもはるけ、ともに過去の因縁おもかたり、たがひに未来の化道おもたすけむことこそ、返返も詮にて候べきと、はじめより申おき候しか」
などと、また会える世界のあることを懇切に語っておられる。
この、正如房とは、式子内親王の出家名が承如法であることなどから、後白河天皇の第三皇女である、式子内親王であろうとも言われている。
玉の緒よ絶えなば絶えね 長らへば忍ぶることの弱りもぞする
の句で、有名な式子内親王である。
この句は、「この命よ絶えるなら絶えてしまいなさい。このまま時間が続いたら、忍んできたこの恋心も、心が弱って秘密にできなくなりそうだから」という意味で恋の歌だとされてきた。
もちろん、そのような解釈もあるのだろうが、病床で病に耐えながら生きながらえることで、自らの往生浄土信仰をおびやかす、異学・異見の者に煩わされず、はやく浄土へ往生してしまいたい、という読み方も出来るではなかろうか。
「正如房へつかわす御文」は、返信なので、正如房の手紙に前掲の和歌がしるされていたという想像も可能である。式子(しょくし)は斎宮であり、法然聖人は僧であったから、男と女の間の愛を超えたひかれあう心の交流を感じさせる一文でもある。透明で相手を想うプラトニックな法然聖人のギリギリの恋文だと見ることも出来るであろう。
「おなじ仏のくににまいりあひて、はちすのうえにて、このよのいふせさおもはるけ、ともに過去の因縁おもかたり、たがひに未来の化道おもたすけむことこそ、返返も詮にて候べきと、はじめより申おき候しか」
意訳:(来世では、阿弥陀仏の浄土の蓮(はちす)の台(うてな)の上で、この世の悩ましい思いとを語り、お互いが出合えた縁(えにし)に思いを馳せながら、あなたと一緒に寄り添い仏道を修しましょうと、お会いした初めから何回も話してきたことでしたと。)
きっと会えますよ、お念仏なさいませ、という、また一つ処でともに会える「倶会一処」のご法義であった。
この手紙に引用されている、経・釈の出拠を思い浮かべながら読むと一層ありがたい手紙ではある。
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