凡情を遮せず

林遊@なんまんだぶつ Post in つれづれ, 仏教SNSからリモート
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浄土真宗には「凡情を遮せず」という言葉がある。

『口伝鈔』にあるように、「まづ凡夫は、ことにおいてつたなく愚かなり」(*)である。
この凡夫の為に、

ただ念仏の力のみありて、よく重罪を滅するに堪へたり。ゆゑに極悪最下の人のために極善最上の法を説くところなり。例するに、かの無明淵源の病は、中道腑臓の薬にあらずはすなはち治することあたはざるがごとし。(*)

と、極善最上の法が、なんまんだぶのご法義である。
そもそも、浄土真宗の浄土とは往生浄土の略であり、真とは真実の略である。法然聖人が開宗された往生浄土宗を略して浄土と呼び、その真実の義を指して御開山は浄土真宗と名づけられたのである。
浄土の真実を宗とするとは、自らの内に全く真実が存在しないということの反顕である。その真実の欠片すら持ち合わせていない林遊が、阿弥陀如来の覚りの顕現である浄土が判るはずがないではないか。
生のみで死の意味づけを知らない近代論者は、浄土教教徒は、西方仏国への往生を願うが架空のおとぎ話であると揶揄する。しかれば汝らに問いたい、汝らの言う世界での宇宙の始まりの前の前は何であるのかと。

さて、経典によれば、浄土は太陽の沈む西方十万億仏土を超えた処にある阿弥陀如来の仏国である。そして覚りの世界であるにも関わらず、七宝の池があり楼閣あり、車輪のごとき蓮華が咲き誇る国だと説かれてある。もちろん覚りの象徴表現ではあるのだが、実に林遊のような凡夫向けの世界が説かれてある。実に心強いではないか。

「倶会一処」と、先立った愛しい人と、また会える世界が用意してあるのですよと『阿弥陀経』は告げる。本来なら無生の生といわれる世界なのであるが、凡夫にも理解出来るような説き方がされているのは大悲の極みであろう。
如来の智慧が、智慧そのままで大悲の顕現として説かれているのが、浄土教の浄土である。御開山は、このような浄土を『安楽集』の曇鸞大師の行実によって和讃されておられる。

(23)
世俗の君子幸臨し
勅して浄土のゆゑをとふ
十方仏国浄土なり
なにによりてか西にある
(24)
鸞師こたへてのたまはく
わが身は智慧あさくして
いまだ地位にいらざれば
念力ひとしくおよばれず (*)

世俗の君子とは、東魏の国王、孝静帝であろうが、少しく仏法の義に通じていたのであろうか、曇鸞大師を呵(叱る、笑う)して、十方仏国みな浄土ではないか、この娑婆世界も覚れば浄土であるが、ひとへに西方仏国に執着するのは迷いではないかと問う。
曇鸞大師は答えて、

「われすでに凡夫にして、智慧浅短なり。 いまだ地位に入らざれば、念力すべからく均しくすべけんや。 草を置きて牛を引くに、つねにすべからく心を槽櫪に繋ぐべきがごとし。 あにほしいままにして、まつたく帰するところなきことを得んや」と。(*)

我すでに凡夫たり……わたしは悟れば娑婆も浄土であるという十地の菩薩のようではありません。自らの背に食べる草があるといえども、心は常に帰るべき牛小屋の槽櫪(飼い葉おけ)に思いを馳せる者であります、とのことである。

お天道さんの沈む西方に、阿弥陀さまの覚りの世界があるのですよ。なんまんだぶを称える者は、やがてこの命、終わった時にその世界へ往生して、今度という今度は、自分のことばかりで苦しむのではなく、あらゆる衆生に寄り添って、お念仏しましょうとのお勧めが出来る者になるのですよというのが浄土真宗のご法義である。

凡夫の想い、「凡情を遮せず」とは、このような凡夫の林遊の思いを遮すのではなく、「遮せず」というご法義である。覚りの世界には凡夫は居ないのであるが、往生を願う者には、想うように思わせておけということである。これを古来から「凡情を遮せず」というのであった。
ただ、このままでは凡情に堕する危険性があるので、先人は「凡情に応ぜず」という言葉も用意してくださってある。「凡情を遮せず、凡情に応ぜず」がそれである。略して「遮せず応ぜず」と言い習わしている。浄土は凡夫の情に応じた世界ではない悟りの無生の世界であるが、凡夫の抱く見生の火は自然に滅するのである。

また氷の上に火を燃くに、火猛ければすなはち氷解く。氷解くればすなはち火滅するがごとし。かの下品の人、法性無生を知らずといへども、ただ仏名を称する力をもつて往生の意をなして、かの土に生ぜんと願ずるに、かの土はこれ無生の界なれば、見生の火、自然に滅するなり。(*)

ここいらへんの言葉の使い方は実に微妙なのだが、語に囚われて義の何たるかを知らない輩には理解不能だろう。浄土真宗のご法義は、本願に選択された、なんまんだぶを称えて浄土に往生して生死を超える仏法なのである。
あなたの信心も、あなたの安心も真実ではないから、阿弥陀さまの選択された名号を称えて、我が国に生まれんと欲(おも)えというのが、御開山がお示しくださったご法義である。

なんまんだぶしましょうよ、お念仏称えましょうよ。
私が選んだ私の行(行為)ではなく、あらゆる生きとし生ける者を、我が国に生まれさせんと立ち上がった阿弥陀さまの願いではありました。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

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