*お前とは、「前」に接頭語の「御(お)」が付いた語。眼の前にいる相手を指す代名詞。
日本人は「二人称」しかない社会で生きているという考察がある。
いわゆる山本七平氏の主張する「日本教」の中での考察である。
「我と汝」という二人称の世界を、お前(汝)と、お前のお前(我)という関係で日本人は把握しているのだという。
いわゆる西洋的な自律と他律という形ではなく、「お前」の反応によって「お前のお前」(すなわち「私」)が律せられるというのである。
これは面白い視点で、ともすれば、いわゆる真宗でいう悪しき他力思想になってしまう。
一方的に相手に迎合したり尽くしたりすることは、お前(汝)と、お前のお前(我)という悪しき関係性のことであり、主体としての我と汝との関係ではない。単なる他者依存であって、自己という責任の主体がなくなってしまう。
このような関係では、ひたすらお前(相手)の主張に私を合わせ、主導権を委ねることになってしまう。面白いことにこのような関係が破綻した時、初めて私は、お前のお前(我)であったことに気づき動転するのである。
越前の道元禅師は、
仏道をならふといふは、自己をならふ也。
自己をならふといふは、自己をわするるなり。
自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。「現成公按」
と、示されているが、「仏道をならふといふは、自己をならふ」とは、先ず自己を知る(確立)ことであって、その上で「自己をならふといふは、自己をわするるなり」と示されるのであって決して逆ではない。
自己をならわず(自己を知らず)して次下の禅師の句を読むなら、三十棒を食らわされるであろう。
私という存在が確立できて、初めて他との関係を考察することができるのだが、山本氏の示すような、お前(汝)と、お前のお前(我)という対人関係では他律はあっても自律という主体性が忘れさられてしまうであろう。
主体の無いところには、自己を見つめる自律も、それに対する反省も起こり得ないのである。
浄土真宗は、大人の宗教であると言われる。梯和上は、
それというのも浄土教というのは、元来大人の宗教なんです。いい歳をして悪いことだと知りながら、性懲りもなく愛憎や憎悪の煩悩を起こし、人を妬んだりそねんだりして、自分で悩み苦しんでいる。そんな自分の愚かさと惨めさに気づきながら、その悪循環を断ち切れない自分に絶望したところから、浄土教は始るのです。その意味で浄土の教えは決して「きれいごと」の宗教ではありません。
そうした自分のぶざまな愚かさを見すえながら、そんな自分に希望と安らぎを与えてくれる阿弥陀如来の本願のはたらきを「他力」と仰いでいるのです。だから他力とは、私を人間の常識を超えた精神の領域へと開眼させ、導く阿弥陀仏の本願力を讃える言葉だったのです。
と、示されている。
その意味で、山本氏のいう、お前のお前という対人関係における他律ではなく、自律しようともがきながら愛憎・憎悪に苦しんできた大人の前に開かれるご法義が、浄土の真実を宗とする浄土真宗である。いわゆる二種深信といわれる立場である。
道元禅師の、
自己をならふといふは、自己をわするるなり。
自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。
という句が、真に意味を持ってくるのである。
慚愧なき真宗は外道に堕するといわれるが、自己が懺悔の主体であるとき、初めて、如来が、汝として呼びかけて下さる我を発見するのである。
その意味で、浄土真宗とは、あくまで主体たる自己の確立の上で、自己の燃え盛る煩悩を凝視した上に展開するご法義である。
御開山が讃詠されるように、罪障が転じられて「悪業おほければ功徳のおほきなり」である。
このご法義では、お前(汝)と、お前のお前(我)という関係で、他者の視点からの我という形でご法義を理解しようとし苦しんできた者が多い。しかし、このご法義は他に我を合わせるご法義ではない。ましてや我と汝という相対関係の対話上で自己を確立するご法義でもないのである。
「なんぢ一心に正念にしてただちに来れ、われよくなんぢを護らん」の声を聞いた一念に、自己を包みこんで下さるのが阿弥陀如来の本願の宗教であった。
自分でsnsの日記にリプライした、日本教ということについて書いてみたのだが、はしょりすぎてわけワカランな(笑
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