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「キリスト教から浄土真宗へ」
ご自身の信仰をキリスト教から浄土真宗へと転じていかれた萩女子短期大学の名誉学長であられる河村とし子先生をご紹介したいと思います。
先生は兵庫県明石市の、敬虔なクリスチャンの家庭に生まれ、地元の学校を卒業後、東京女子大学に進まれます。
そこで今は亡き夫、河村定一さんと知り合われ、生涯クリスチャンとして生きるということと、夫の実家で暮らさなくてもいいということを条件に結婚されます。
ところが、戦争が次第に激しくなり、空襲を避けるため夫を東京に残し、子供二人を連れて、夫の実家に疎開されるのです。
実家は山口県の萩市にほど近い山間の村にあり、年老いた両親が家業の農業を営んでいました。
「こんな思いがけないところに来たのはキリスト教を広めよという神様の思し召しに違いない」と思い込んだ先生は、クリスチャンとしての使命を果たすべく、その日から毎晩のように両親の部屋へ出向いてはキリスト教の教えを説き始めるのです。
夫の両親は、嫌な顔もせず「そうか、そうか」とニコニコしながら彼女の話を聞いてくれたそうです。
そういう日が続いていくうちに、先生の心の中に微妙な変化が起こるのです。
それは、四人の子供を立て続けに亡くされたにもかかわらず、両親の生活からはその暗さやわびしさが全然感じられないのです。しかも、都会育ちで田舎の習慣になじもうとしない彼女のような傲慢な嫁に対して両親は本当に親切にしてくれるのです。
さらに驚くべきことに、田舎の生活には珍しく、日の良し悪しや、占い、まじないといった迷信めいたことが全くなく、河村家の家訓として代々言い伝えられてきたことが、人間として一番大切なことはお寺に参って仏法を聴聞することだというのです。
そうして、「仕事は聴聞のあまりがけですればいい」というのです。
このような、仏さまを中心に穏やかな日暮らしを続ける両親を見ているうちに、お寺というのは一体どんなところなんだろという思いが生まれてきたのです。
そこで先生は好奇心も手伝って生まれて始めてお寺を訪れることになるのです。
その時のお説教が、「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」というものでした。
これは、阿弥陀さまの救いの目当ては善人ではなく悪人だという、浄土真宗の教えの要になるお話です。
これまで、善人は救われるが、悪人は裁かれると、キリスト教で教えられてきた先生にとって、初めて聞くこのお話は大きな驚きでした。しかし、その話全体を通して何ともいえない感動を覚えたのです。
このことがきっかけになり、先生は次第に仏教の勉強を始めるようになりました。
特に、クリスチャンとして守るべき戒律を中々守れないことに矛盾を感じていた先生にとって、自分の浅ましい心をごまかさず赤裸々にさらけ出していかれた親鸞聖人という方に、何ともいえない安堵感を覚えると同時に、強く惹かれるものがあったのです。
何としてもこのお念仏の道を極めたいと、方々のお寺に聴聞に出かけました。
しかし、その道は決して平坦なものではありません。聞けども聞けども心の底からうなずけるまでには至らないのです。
純真で一途な先生は、いっそのこと離婚をして、家を出てでも、このお念仏の道を求めていきたいと両親に願い出たこともありました。
そんな時、両親は「聞きたいという気持ちが起こったということは、もう仏さまのお手の中に抱かれているということだから、ともかく家のことも子供のことも一切私たちに任せて、気の済むまで、日本はおろかどこまででも行ってお聴聞してくるがいい」と励ましてくれたのです。
こうして懸命に道を求める先生に、ついに仏さまのお心に出遭う時が来るのです。
その時のことを次のように語っています
「いつものように理屈をこねながら聞いておりました私が、今まで思いもしなかったことに気付いたことがあります。
自分が生きて自分が求めて、自分がこうして苦労しているんだと思っておりましたこの私というものが、自分で生きているんじゃない、人間を超えた大きな大きなおかげさまで生かされている私だということに、フッと気付いた瞬間があります。
本当にそれは瞬間なんです。
ところが不思議でならないのはお念仏を唱えることが大嫌いだった私が、その時全く無意識のうちに「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と声に出してお念仏を唱えていたのです。
そうだったのか、呼ばれている身だったんだ、願われている身だったんだと、その時はっきり気付かせていただけたんです。その日は家に帰る道すがら、深い感動に襲われ涙が止まりませんでした」
まさに、聞かさずにはおれないという阿弥陀さまのお心が、しぶといしぶとい彼女の心に至り届いたのです。
こうして見事な回心を遂げた彼女はさらに次のように語っています。
「その日を限りに私がありがたい人間に変ったのかと言いますと、私自身はちっとも変わってはいないのです。傲慢でもあり、不遜でもあり、どうにもならない浅ましいものを抱えていることにはちっとも変わらないのです。
けれども、その私にお念仏が出て下さることによって、のど元まで怒りがこみ上げた時には、我慢せよと慰めて下さる。道を間違いそうになった時には、危ないよと呼んで下さる。悲しみのどん底にある時には、共に泣いている親があることを忘れるなよと呼んで下さる。
そんな、阿弥陀さまの呼び声であるお念仏によって導かれていく日暮の安らかさというものを、私は知ることが出来たんです。本当にみ仏さまに出遭わせていただいたというのはそのことだと思います。」
これが信心を頂いた念仏者の日暮らしというものです。
よくよく味わっていただきたいと思います。
こうしてクリスチャンから念仏者へと転じていかれた先生は、来し方を振り返り 次のように語っています。
「私の人生で最もありがたかったことは姑(河村フデ)との出遭いでした。
一字の読み書きも出来ない母でしたが、阿弥陀さまにすべてをおまかせすることを、身を以って教えていただいた方でした。決して説教じみたことや押し付けがましいことを言う人ではありませんでしたが、母は私を教化下さるために、この世に出てこられた仏さまではなかったかと思います」
「人は人によって育てられる」と言いますが、ことに仏法はその真理を体現した人を介さなければ決して伝わりません。
それだけに、そのような人(仏法の体現者)との出遭いが極めて大事なことになるのです。
相田みつをさんの詩に次のようなのがあります。
そのときの出逢いが
その人の人生を
根底から変えることがある
・・・
・・・
人間を根底から変えてゆくもの
人間を本当に動かしてゆくもの
それは人と人との出逢い
まことにその通りだと思います。
しかも、その出遭いの背後には、無限の過去からの無量無辺のご縁が、はたらいていたことを思う時、「遠く宿縁を慶べ」という親鸞聖人のお言葉をあらためて思い起こさずにはおれません。
http://www.koumyouji.com/houwa/51.htm
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ちょうど河村とし子さんが聴聞に励んでいた頃のエピソードであろうか。
同じ山口県の深川倫雄和上に次のような話をお聞かせに預かったことがあった。
とし子さんが、ある一人で日汽車に乗って遠方へ聴聞に出かけた。
家から駅までの長い道を歩き、駅に到着した汽車に乗ろうとしたところ、
ちょうどその汽車で長期の出張で家を空けていた夫が降りてくるのとバッタリ出会った。
お帰りなさい、では私は聴聞へ、という訳にもいかず夫の後ろからカバンを持ってついて帰ったそうである。
玄関の戸を開ければ両親が、よお帰ったよお帰った早く上がれと夫を迎える。
と、続いて夫の後からカバンを持って玄関に入ったとし子さんに向かって、
あんたはお聴聞に出かけた筈ではなかったか、浄土真宗のお聴聞というのはそんな生易しいものではないぞ、
今すぐ次の汽車でお聴聞に行きなさい、と言ったそうである。
そしてまた長い道を駅へ引き返しお聴聞に出かけたという。
如来の方を向いていない間は、一言も寺へ参れといわず、如来の方を向いた途端の厳しい言葉である。
浄土真宗のご法義は他力だから何もしなくても良いという人がいる。
もちろん全分他力のご法義であるからなんまんだぶの他力を慶ぶ事は当たり前だ。
しかし、如来の真実の謂れ聞けば聞くほど、あくなき御恩報謝の道もこのご法義にはある。
如来大悲の恩徳は
身を粉にしても報ずべし
師主知識の恩徳も
ほねをくだきても謝すべし
身を粉にしたり骨を砕くような真正の御報謝は不可能だが、せめて御報謝の真似事を心がける事もあってもいいのではないか。
そのような深川和上のご法話であった。
和上は常に仰せになる。
信心の話と御報謝の話は理屈が違うのです。信心は何の話かというと、如来さまのお話。
ご報謝は私どもの努力。私どもの努力を、ご信心のところでごっちゃに考えるから間違えるのです、と。
かくなる上は、なんまんだぶなんまんだぶと、如来さまの好きなことはするように、如来さまの嫌いなことはせぬように自己を策励していく道もあるのだろう。
なんまんだぶ なんまんだぶ 慚謝、慚謝
SNS [2009/11/14」より