詩のはなし

林遊@なんまんだぶつ Posted in 仏教SNSからリモート
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通常のコミューケーションの道具としての言葉ではなく、自己の内面から沸き起こるリピドーを言葉に変換したものが詩であろう。
他者に、理解してもらおうとか、言葉を共有しようという思いのない言葉が詩なのである。

タスカッテミレバ
タスカルコトモイラナカッタ
ワタシハコノママデヨカッタ

竹部勝之進という、求道放浪の末に、氏の脳裏をよぎった詩であろう。

意訳というか、主語を付加して味わってみる。

(阿弥陀さまによって) タスカッテミレバ
(私の想いで) タスカルコトモイラナカッタ
ワタシハコノママデヨカッタ

「ワタシハコノママデヨカッタ」というところで、世俗の論理に苦しむ者の救いがあるのでろう。
アナタハ、アナタノママデ、イイノデスヨと教説が慈悲の至極としての浄土真宗である。阿弥陀さまがご一緒であるから。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、この広大な世界から届いてい名号を理解できる人は少ないな。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ

なにしてる?

林遊@なんまんだぶつ Posted in 仏教SNSからリモート
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『淨土法門源流章』タッチ中。
http://goo.gl/Zq0GV
固有名詞が頭に入っていないとワケが判らんな。
幸西大徳の一念義は、非常に御開山と近いので面白い。
覚如上人は、幸西門下で学んだことがあると聞いた事があったが、「信心正因 称名報恩」は、一念義くさいと思ふ。(これはこれで、当時繁盛していた多念義の張本である鎮西浄土宗への対抗意識があったのだと思量するけど)
しかるに、御開山のお心では、『西方指南抄』にあるように「信おば一念に生るととり、行おば一形をはげむべし」だと思ふ。
http://goo.gl/eQz7K

唯円坊のいうように、「他力真実のむねをあかせるもろもろの正教は、本願を信じ念仏を申さば仏に成る、そのほかなにの学問かは往生の要なるべきや。」なのであるが、昨今、なんまんだぶを称えない坊主が多いのは困ったものである。
自覚という、ありものしない「信心」とやらを説いて、断絃を揆して清音を責めようというのであろうか。

念仏成仏これ真宗
万行諸善これ仮門
権実真仮をわかずして
自然の浄土をえぞしらぬ

という、本当の念仏成仏を説かずして、架空の信心を説いているから、坊主は下記のキリスト教の笑い話のように世間でも揶揄されるのであろう。

>引用
★感動させる説教者

ある司教が有名な俳優に尋ねた。「我々説教者は人間に本当に必要なことを説いてもなかなか理解してもらえないのに、あなたがた役者さんたちは舞台上の作り事で人々を深く感動させることができるのはどうしてだろうか」

俳優は答えた。「わたしたちは架空のことを本当のことのように語っていますが、聖職者のみなさんは、本当のことを架空のことのようにお話しなさってるからですよ」
http://home.interlink.or.jp/~suno/yoshi/joke/joke02.htm
>引用終

リストカットするお姉ちゃんや、明日が見えない派遣労働で働く若者や、災害で家族を亡くして慟哭する人に、安心とか信心とか説いても間にあわんではないか。
意味とか訳が解からなくてもいいのですよ、掌'(たなごころ)をあわせて、なんまんだぶを称えましょというのが、「諸仏の大悲は苦あるひとにおいてす」の緊急のご法義であろう。いま苦しんでいる人に届かないようなご法義なら、愚者の為の浄土真宗のご法義ではないはずである。

と、酔っ払っているからどうでもいいが、なんまんだぶは最強ではあるな。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

こゑにつきて決定往生のおもひをなすべし

林遊@なんまんだぶつ Posted in つれづれ, 管窺録
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なんまんだぶという、行に就いて信を立てる、「就行立信」に関する法然聖人の御法語である。

「たれだれも、煩悩のうすくこきおもかへりみず、罪障のかろきおもきおもさたせず、ただくちにて南無阿弥陀仏ととなえば、こゑにつきて決定往生のおもひをなすべし、決定心をすなわち深心となづく。その信心を具しぬれば、決定して往生するなり。」(『聖全』四 p191 『西方指南抄』「大胡の太郎實秀へつかわす御返事」)(*)

「ただ心の善悪をもかへりみず、罪の軽重をもわきまへず、心に往生せんとおもひて、口に南無阿弥陀仏ととなえば、こゑについて決定往生のおもひをなすべし。その決定によりて、すなはち往生の業はさだまる也。」(『聖全』四 p580 『和語灯録』の「往生大要鈔」)(*)

「心の善悪をもかへり見ず、つみの軽重を沙汰せず、ただ口に南無阿弥陀仏と申せば、仏のちかひによりて、かならず往生するぞと決定の信をおこすべき也」『聖全』四 p614 「浄土宗略鈔」)(*)

「ただ心のよき・わろきをも返り見ず、罪のかろき・おもきをも沙汰せず、心に往生せんとおもひて、口に南無阿弥陀仏ととなへば、声につきて決定往生のおもひをなすべし。その決定の心によりて、すなはち往生の業はさだまる也」(『聖全』四 p754 ご消息)(*)

「声について、決定往生のおもいをなすべし」とは、南無阿弥陀仏と称えたら必ず声が耳に届いてくる。その声が、なにゆえ往生決定の行となるかといえば、なんまんだぶと称え聞くことが、本願の行を行じているからである。
阿弥陀如来が念仏一行を選び取って、この念仏する者は浄土に往生させるという、本願に相応した行だからである。
行に就いて信を立てる(就行立信)とは、念仏を称えた者を往生させるという念仏往生の本願(第十八願)を信ずることである。阿弥陀如来が決定しているから、衆生の決定往生なのである。本願を信じ念仏するのである。

法然聖人は「浄土宗略鈔」では「声について」を「仏のちかひによりて」と、仰っている。「声について」と「仏のちかひによりて」は、同じ事だというのである。自分の口から称えられる、なんまんだぶはを聞くということは、そのまま如来の誓い(本願)を聞いていることだと仰るのである。

深川和上は、「なんまんだぶのワケはなぁ、そのまま来いよ、間違わさんぞ、待っておるぞ、ということじゃ」と、お示し下さった。
「われ称えわれ聞くなれど南無阿弥陀仏 つれてゆくぞの親のよびごえ」と原口針水和上も讃詠されておられるように、なんまんだぶは称えて聞くものである。

法然聖人は、『選択本願念仏集』で、なんまんだぶという行は、「たとひ別に回向を用ゐざれども自然に往生の業となる。」(*)と仰せである。主著の、『選択本願念仏集』は、まさにその名のごとく、本願に依って選択された念仏を顕さんが為の書である。念仏は、本願によって往生行と選定されから、衆生の側から回向する必要はなく、称えるままが自然に往生の業因となるのである。
この、 「自然に往生の業となる」とは、実は阿弥陀如来の本願力回向であるとされたのが御開山であった。天親菩薩の『浄土論』と、その解説書である曇鸞大師の『浄土論註』の本願力回向によって、不回向とは本願力回向を顕すことであったとされたのである。如来の本願力によって回向されるから衆生の側からは不回向なのである。

御開山は『浄土文類聚鈔』で、「聖言・論説ことに用ゐて知んぬ。凡夫回向の行にあらず、これ大悲回向の行なるがゆゑに不回向と名づく。まことにこれ選択摂取の本願、無上超世の弘誓、一乗真妙の正法、万善円修の勝行なり。」(*)と、不回向を、選択摂取の本願とか無上超世の弘誓などとされていることからも分る。
また、「行巻」の六字釈自釈で、「ここをもつて帰命は本願招喚の勅命なり。」(*)と仰るのも、このような法然聖人の意をうけられたからであろう。

越前の道元禅師は『弁道話』の中で、「口声をひまなくせる、春の田の蛙の昼夜に鳴くがごとし。ついにまた益なし。」(*)と、云われたそうだが、たしかに自力の行として口称のなんまんだぶを捉えるならそのように見る事もできるであろう。現代人もまた、本願力回向の、称えて聞くという名号を知らないから禅師と同じように念仏を蛙の鳴き声のように理解しているのであろう。
越前の黒田沐山居に以下のような詩がある。

ききつつぞ 足をの(伸)ぶれば
たらちね(母)が もも(腿)のあたりか
ぬくぬくし ころ(児)が あなうら(蹠)
……ちぢに鳴く
田のかはず(蛙)めは おも(母)よ なに……
……彼こそは はうずびく(法蔵比丘)よ
おぼろよ(夜)に
むらの人どちやす(寝)むまも
おもひ くだ(砕)かす ぼさつ(菩薩)どち なれ……
黒田沐山居 『かはづ抄ー南無母の歌』

母ちゃんと寝床に入いり、寝物語を聞きながら、だんだん足をのばしていくと、足の裏が母ちゃんの 腿のあたりにふれてとても温かい。
蛙の鳴き声が聞こえる。
「母ちゃん、田んぼでぐわぁぐわぁ鳴いているあの蛙は何?」
「あれは法蔵比丘だよ。おぼろ夜に、村の人々が寝ている間も、みんなのために心を砕いて思いをかけていてくださる菩薩さまだよ」

雪解けの遅い北越で、春冷えのする夜の母と子の会話である。「春の田の蛙の昼夜に鳴く」声にもなり、聞こえて下さる「そのまま来いよ、間違わさんぞ、待っておるぞ」との呼び声であった。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ…… こゑにつきて決定往生のおもひをなすべし。これが仏願を聞くということである。

念仏と呪術

林遊@なんまんだぶつ Posted in 仏教SNSからリモート
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[念仏と呪術」──念仏=呪術論争をめぐって──
http://dspace.wul.waseda.ac.jp/dspace/bitstream/2065/4422/1/91389_155.pdf

を、読んでみた。ついでにテキスト化してみたが文字化けするので手間取った。
家永三郎氏は、念仏呪術論を展開するのだが、「自然界を人間生活に役立てるための自然科学的法則を基礎におく技術、あるいは、人問社会を合理化していくための社会科学的法則」という、いわゆる現代知識人の目でしか、口称の<なんまんだぶつ>を捉えていないのだなと思ったものである。
宗教の世界は、わたし一人という世界ではたらく主体的な原理なのであって、客観性などどうでもいい世界である。しかし、そこを通らなければ、また自己を主体とした世界も味わえないのではなかろうか。

昔の田舎の門徒は、なんまんだぶ、ありがたい、なんまんだぶ、ありがたい、と、念仏と感謝を交互にお念仏を称えていものである。このようなお念仏は、称えるというより聞く念仏である。阿弥陀如来は、無上(*)であり浄土は無上涅槃(*)、そして、念仏も無上功徳(*)である。
無上とは有上に対する言葉であって、この上が無いということである。仏も無上、浄土も無上、念仏も無上である。
無上である、なんまんだぶは、阿弥陀如来が、浄土が、我が身の上に顕現してはたらいている相状である。
言葉を超えた本願の世界から、再び言葉となって、私の身の上にはたらき続けている大利無上の功徳が、なんまんだぶである。
あり得ない事が、我が身の上の事実として起こっているから、なんまんだぶ、ありがたいなのである。

ひく足も 称える口も 拝むて手も
弥陀願力の不思議なりけり (寂如上人)

お聴聞に参る足も、なんまんだぶと称える口も、阿弥陀さまを合掌する手も、本願力が現に身の上に、はたらいて下さってある相(すがた)である。
だから、不思議なのである。この願力不思議がはたらいているから、有る事難しで、ありがたいなのである。

なんまんだぶ なんまんだぶ ありがたいなあ