[念仏と呪術」──念仏=呪術論争をめぐって──
http://dspace.wul.waseda.ac.jp/dspace/bitstream/2065/4422/1/91389_155.pdf
を、読んでみた。ついでにテキスト化してみたが文字化けするので手間取った。
家永三郎氏は、念仏呪術論を展開するのだが、「自然界を人間生活に役立てるための自然科学的法則を基礎におく技術、あるいは、人問社会を合理化していくための社会科学的法則」という、いわゆる現代知識人の目でしか、口称の<なんまんだぶつ>を捉えていないのだなと思ったものである。
宗教の世界は、わたし一人という世界ではたらく主体的な原理なのであって、客観性などどうでもいい世界である。しかし、そこを通らなければ、また自己を主体とした世界も味わえないのではなかろうか。
昔の田舎の門徒は、なんまんだぶ、ありがたい、なんまんだぶ、ありがたい、と、念仏と感謝を交互にお念仏を称えていものである。このようなお念仏は、称えるというより聞く念仏である。阿弥陀如来は、無上仏(*)であり浄土は無上涅槃(*)、そして、念仏も無上功徳(*)である。
無上とは有上に対する言葉であって、この上が無いということである。仏も無上、浄土も無上、念仏も無上である。
無上である、なんまんだぶは、阿弥陀如来が、浄土が、我が身の上に顕現してはたらいている相状である。
言葉を超えた本願の世界から、再び言葉となって、私の身の上にはたらき続けている大利無上の功徳が、なんまんだぶである。
あり得ない事が、我が身の上の事実として起こっているから、なんまんだぶ、ありがたいなのである。
ひく足も 称える口も 拝むて手も
弥陀願力の不思議なりけり (寂如上人)
お聴聞に参る足も、なんまんだぶと称える口も、阿弥陀さまを合掌する手も、本願力が現に身の上に、はたらいて下さってある相(すがた)である。
だから、不思議なのである。この願力不思議がはたらいているから、有る事難しで、ありがたいなのである。
なんまんだぶ なんまんだぶ ありがたいなあ