平生業成

林遊@なんまんだぶつ Posted in つれづれ
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へいぜいごうじょう

臨終を待つまでもなく、平生に他力の信心をえたそのときに浄土に生れることが確定すること。 → 業事成弁(ごうじじょうべん)


 

臨終業成に対する言葉。死ぬるまで称名を相続する事によって臨終の一念に往生が決定するというのが臨終業成説。 つまり、生涯の相続した称名の功徳力によって臨終に来迎を得る、その時に往生の業事・業因が完成するというのが臨終業成説である。したがって臨終の来迎を期して生涯念仏をし続けるので多念義ともいう。
法然聖人は、

「問ていはく、最後の念仏と、平生の念仏といつれかすぐれたるや。」

の問いに、

「答ていはく、たたをなじ事也。そのゆへは、平生の念仏、臨終の念仏とてなんのかはりめかあらん。平生の念仏の死ぬれは、臨終の念仏となり、臨終の念仏ののぶれは、平生の念仏となる也」『和語灯録』「念仏往生要義抄」

と、答えられ平生と臨終を分けるような考え方を否定されておられる。また、同じく次下で、

問ていはく、摂取の益をかうふる事は、平生か臨終か、いかむ。
答ていはく、平生の時なり。そのゆへは、往生の心まことにて、わか身をうたがふ事なくて、来迎をまつ人は、この三心具足の念仏申す人なり。この三心具足しぬれば、かならず極楽にうまるといふ事は、『観経』の説なり。かかる心さしある人を、阿弥陀仏は八万四千の光明をはなちててらし給ふ也。平生の時てらしはじめて、最後まて捨給はぬなり。かるかゆへに不捨の誓約と申す也。

と、『観経』に説かれる「十方世界念仏衆生摂取不捨」を平生のことであるとされている。『西方指南鈔』下本「禅勝房との十一箇条問答」には、『礼讃』の「十声・一声必得往生」と『散善義』「三心決釈」の「一発心已後 誓畢此生 無有退転」を対比されて、

十声・一声の釈は、念仏を信するやうなり。かるがゆへに、信おば一念に生るととり、行おば一形をはげむべしと、すすめたまへる釈也。また大意は一発心已後の釈を本とすべし。

と、「信おば一念に生るととり」と、されているから、信の決定する時は平生であると言わねばならない。 法然聖人は、善導大師の『観経疏』「就行立信釈」の「順彼仏願故」の文によって回心されたことは有名である。自らが選択する行業ではなく、仏の本願によって選択されていた行が、口称のなんまんだぶであった。法然聖人は、本願に選択されている行であるから、衆生の側からは回向する必要がないので、なんまんだぶを不回向であるとされたのである。「たとひ別に回向を用ゐざれども自然に往生の業となる。」『選択集』

この法然聖人の意を正確に受容し、不回向ということは、実は阿弥陀如来の本願力回向であると『浄土論」、『浄土論註』の本願力の語に依って法然聖人の真意を考究し顕していかれたのが親鸞聖人であった。そして、法然聖人の「摂取の益をかうぶる事」は、「平生の時」であるというお示しによって、『観経』の「念仏衆生摂取不捨」の文意を領解していかれたのである。この「念仏衆生摂取不捨」を、『浄土和讃』で、阿弥陀仏の名義(名の由来)を釈され、

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十方微塵世界
念仏の衆生をみそなはし
摂取してすてざれば
阿弥陀となづけたてまつる (*)

の、摂取して捨てざれば、の国宝本の【左訓】に

摂(おさ)めとる。ひとたびとりて永く捨てぬなり。摂はものの逃ぐるを追はへ取るなり。摂はをさめとる、取は迎へとる

とされておられる。
この「ひとたびとりて永く捨てぬなり」であるならば、当然浄土に生まれることは決定しているのであって、それを「正定聚不退転」とされたのである。平生の一念に阿弥陀如来の名号を聞信する一念に、浄土往生は決定するというのが「平生業成説」であった。

なんまんだぶを称え聞く、念仏の衆生を摂取不捨するのであって、念仏を称えない者を摂取不捨するのではないのである。