『やさしい安心論題の話』(灘本愛慈和上著)の「おわりに」、にある本願文と本願成就文の対照が判りにくいので画像を挿入した。以下画像と本文をUP。
右の対照によって、因願の文には「聞其名号」の語は出ていないけれども、成就文にそれが示されていることによって、因願の三心十念は聞其名号によっておこさしめられることが知られます。
次に因願にあては三心のあとに「乃至十念」が示されているのに対し、成就文では「信心歓喜」(信楽)のすぐあとに「乃至一念」が示され、因願の「至心」「欲生」に当たる文は「乃至一念」より後に出されています。「乃至」の語は因願にあっても成就文にあっても、一生涯の相続を省略される語であります。そうしますと、成就文によれば、聞其名号の心相を信心歓喜(信楽)の一心とし、それが生涯相続するという意味になります。この成就文の意味によって因願を見れば、三心とは言っても私のいただく相を示すのは中間の信楽一心であると知られます。逆にいえば、名号をいただいた信楽一心の徳義を開けば三心となるということが知られます。
次に経文の当分から見れば、因願の「至心」が成就文の「至心」と出され、因願の「欲生我国」は成就文の「願生彼国」に相当すると思われますが、宗祖は成就文の「至心回向」を阿弥陀仏に属して読まれます。なぜそのような読み方をされたのかについては多くの説明を要しますので、今は『大経』の因行段に(真聖全二―六〇引用)、
大荘厳を以て衆行を具足して、もろもろの衆生をして功徳成就せしめたまえり。
とある一文と『論註』下巻終り(真聖全二―三六引用)の他力釈とを指すにとどめます。
この至心回向が如来のおんはたらきであるとすれば、因願の前後二心(至心欲生)も如来からいただいた徳義であると知られましょう。そこで、三心について約生の三心、約仏の三心、生仏相望の三心というようが見方が出てくるわけであります。
次に因願では三心十念のあとに「若不生者」の果が示されていますが、成就文では信一念の即時に「即得往生住不退転」の益が得られると説かれています。これによって、衆生の称名をまつことなく信一念に往生が決定することが知られると共に、その信心が相続の上には必ず称名念仏となって現れてくることが知られます。
さらに、因願にあってはその得益として往生浄土の証果を示され、成就文では現生不退の益が説かれています。これによって、この世の寿命が尽きたとき真実報土に往生するのだけれども、それが決定するのは現生信一念のときであると知られ、逆に現生に不退に住するから、臨終の善悪は問題でなく、寿尽きればまちがいなく報土の往生が得られるのであると知られます。
{ここまで}
法然聖人においては成就文の一念は称名の一念/一声であったが、御開山はそれを信の一念であると見られた。そのような見方は、真実の信心とは果に於いて仏心であるような信こそが真に往生成仏の因であるとされたからであった。
もちろん、『無量寿経』の異訳である『無量寿如来会』の成就文、
他方仏国所有有情 聞無量寿如来名号 能発一念浄信 歓喜愛楽 所有善根回向 願生無量寿国者 随願皆生 得不退転乃至無上正等菩提 除五無間誹謗正法及謗聖者。(*)
(他方の仏国の所有の有情、無量寿如来の名号を聞きて、よく一念の浄信を発して歓喜せしめ、所有の善根回向したまへるを愛楽して、無量寿国に生ぜんと願ぜば、願に随ひてみな生れ、不退転乃至無上正等菩提を得んと。五無間、正法を誹謗し、および聖者を謗らんをば除く」と。)
に、能発一念浄信(よく一念の浄信を発し)とある、浄信の語に依られて『無量寿経』の乃至一念を清浄な信心であると見られたことにもよるのであろう。
さて、真実の信心とは果において仏心であるような信であると記した。そして、この仏心であるような信心こそが「如来よりたまはりたる信心」(*)であり、願作仏心である。自らが浄土へ往生して、衆生(あらゆる生きとし生けるもの)を迷いのない浄土へ往生せしめようという浄土の菩提心であった。
わたくし一人が救われても、それは本物の救いではないのである。阿弥陀如来の救済は完成しないのである。
当ブログの度断学成で述べたように、仏道の正因は菩提心である。浄土の菩提心は、聖道の菩提心と違い阿弥陀如来の本願(菩提心)によって発さしめられる菩提心であった。
『摧邪輪』 によって法然聖人の『選択本願念仏集』を菩提心撥無であると非難中傷した、明恵上人高弁ではあるが、汝に真の菩提心有りやと問えば、無いという答えが返ってくるであろう。念仏弾圧の因となった『興福寺奏状』を著した解脱上人貞慶にしても真実の菩提心は発すことは出来ず、晩年には臨終の正念に清浄な菩提心が起こることを期待したのであった。『観心為清浄円明事』
まさに、御開山が和讃されるごとく
(16)
自力聖道の菩提心
こころもことばもおよばれず
常没流転の凡愚は
いかでか発起せしむべき
で、あった。
これに対して、本願力によって発さしめられた、阿弥陀如来から回向された御信心(菩提心)によって仏に成ろうという意が浄土の菩提心であり信心である。これを曇鸞大師は願作仏心と示して下さったのである。
(17)
尽十方の無碍光仏
一心に帰命するをこそ
天親論主のみことには
願作仏心とのべたまへ
(18)
願作仏の心はこれ
度衆生のこころなり
度衆生の心はこれ
利他真実の信心なり
(20)
浄土の大菩提心は
願作仏心をすすめしむ
すなはち願作仏心を
度衆生心となづけたり
(21)
度衆生心といふことは
弥陀智願の回向なり
回向の信楽うるひとは
大般涅槃をさとるなり
横超とは、これすなはち願力回向の信楽、これを願作仏心といふ。願作仏心すなはちこれ横の大菩提心なり。これを横超の金剛心と名づくるなり。 横竪の菩提心、その言一つにしてその心異なりといへども、入真を正要とす、真心を根本とす、邪雑を錯とす、疑情を失とするなり。欣求浄刹の道俗、深く信不具足の金言を了知し、永く聞不具足の邪心を離るべきなり。(*)
本願力回向の信楽であるから願作仏心であり、すなわち浄土の大菩提心であるから、よく報土往生の因となるのであった。