阿弥陀さまがごいっしょです、に梯實圓和上の「教行証文類のこころ」を転載した。2001年8月1~3日に真宗出雲路派夏安居での講義をテープ起こししたもので、『教行証文類』とは如何なる書物であるかということを懇切に解説して下さった記録である。
浄土真宗の大綱という視点から『教行証文類』が書かれねばならなかったという考察であり、往相と還相の二回向という御開山聖人独自の仏教観を知る上で資すると思ふ。浄土真宗のご法義を論ずるとき、どうしても文に付いてまわってしまい重箱の隅をほじくるような議論になるのだが、浄土教とはいかなる宗教であるかの大綱を知らなければ単なる戯論になってしまうであろう。
朝菌不知晦朔、蟪蛄不知春秋(朝菌は晦朔を知らず。蟪蛄は春秋を知らず。)である。この語は『荘子』にある語で、『論註』で引用されている。いわゆる、北冥に魚有り、其の名を鯤と為す。鯤の大いなる其の幾千里を知らず。化して鳥と為る。其の名を鵬と為す。鵬の背、其の幾千里を知らず。怒して飛べば、其の翼垂天雲の若し。是の鳥や、海運れば則ち将に南冥に従らんとす。南冥とは、天池なり、の言は大綱を知らない蝉や鳩が重箱の隅をほじくっているようなもので、まさに燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らんや『史記』ではある。
御開山は、念仏成仏是真宗と、仏を念じて仏に成るご法義を是真宗とおさえておられるが、浄土真宗とは、なんまんだぶを称えるご法義であることを忘れ、ありもしない信心に迷う輩が多いのは困ったものではあるな。
リンク→「教行証文類のこころ」
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