御開山のご著書は難しい。
でも、使われておられる言葉の出拠をみることで、少しだけ意味が判るとこともあるので面白い。
この心すなはちこれ念仏往生の願(第十八願)より出でたり。この大願を選択本願と名づく、また本願三心の願と名づく、また至心信楽の願と名づく、また往相信心の願と名づくべきなり。しかるに常没の凡愚、流転の群生、無上妙果の成じがたきにあらず、真実の信楽まことに獲ること難し。
なにをもつてのゆゑに、いまし如来の加威力によるがゆゑなり、博く大悲広慧の力によるがゆゑなり。たまたま浄信を獲ば、この心顛倒せず、この心虚偽ならず。ここをもつて極悪深重の衆生、大慶喜心を得、もろもろの聖尊の重愛を獲るなり。 (*)
常没の凡愚であり、迷いの世界で生れ変り死に変りし続ける存在が、この上もない証(覚り)を開くことが難しいのではなく、その覚りそのものである、真実の信楽(信心)を獲ることが困難であるとされる。
何故なら、大悲広慧の力によるからであると言われる。
この大悲広慧の広慧は、『如来会』の「阿逸多。汝観殊勝智者。彼因広慧力故受彼化生。」(阿逸多(弥勒)、なんぢ殊勝智のものを観ずるに、かれは広慧の力によるがゆゑに)の広慧力によられたものであろう。
御開山の先輩であった幸西大徳は、魏訳の『無量寿経』の「大乗広智」を信心の本体であるとされたのだが、御開山は 『如来会』の広慧力という語を使われるのは「乃至能発一念浄信歓喜愛楽」の浄信という語に如来回向の浄信をみられたからであろうか。
【8】 『如来会』(下)にのたまはく、「仏、弥勒に告げたまはく、〈もし衆生ありて、疑悔に随ひて善根を積集して、仏智・普遍智・不思議智・無等智・威徳智・広大智を希求せん。みづからの善根において信を生ずることあたはず。
この因縁をもつて、五百歳において宮殿のうちに住せん。{乃至}阿逸多(弥勒)、なんぢ殊勝智のものを観ずるに、かれは広慧の力によるがゆゑに、かの蓮華のなかに化生することを受けて結跏趺座せん。なんぢ下劣の輩を観ずるに、{乃至} もろもろの功徳を修習することあたはず。ゆゑに因なくして無量寿仏に奉事せん。このもろもろの人等は、みな昔の縁、疑悔をなして致すところなればなり〉と。{乃至}仏、弥勒に告げたまはく、〈かくのごとし、かくのごとし。もし疑悔に随ひて、もろもろの善根を種ゑて、仏智乃至広大智を希求することあらん。みづからの善根において信を生ずることあたはず。仏の名を聞くによりて信心を起すがゆゑに、かの国に生ずといへども、蓮華のうちにして出現することを得ず。かれらの衆生、華胎のうちに処すること、なほ園苑宮殿の想のごとし〉」と。{抄要} (*)
命懸けで浄土往生を欣い善を修習している人には、残酷ではあるが「於自善根不能生信」(みづからの善根において信を生ずることあたはず。)と御開山はお示しである。これはほとんど理解不能の教説であろう。信賞必罰という論理は我々が生きている世界では当たり前であり、善因楽果・悪因苦果(善いことをすれば心楽しくなり、悪をなせば苦の報いを受けるという)という法則は、疑問を持つまでもなく当たり前の法則である。
これが公平のという原則である。しかるに、阿弥陀如来は平等の大慈悲にもよおされて、なんまんだぶのご法義を建立されたのであった。
これが、『信巻』大信嘆徳(四不十四非)(*)
で、あるが、悪の何たるかを知らない懺悔の意味すら知らない偽善者のなんまんだぶを称えない真宗坊主には理解不能だろうな。
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