WIKIARCに『無量寿経』の異訳である『無量寿如来会』と『仏説無量清浄平等覚経』をUPした。
『無量寿如来会』には三毒段、五悪段が無いので読んでいても身につまされることは少ない(笑
なお、法然聖人は、『無量寿経』の本願成就文の
「聞其名号、信心歓喜、乃至一念」(その名号を聞きて、信心歓喜せんこと乃至一念せん)(*)
の一念を、なんまんだぶを称える行の一念と見られた。
しかるに御開山は『無量寿如来会』の、
「聞無量寿如来名号。乃至能発一念浄信歓喜愛楽」(無量寿如来の名号を聞きて、乃至、能く一念の浄信を発して歓喜愛楽し)(*)
の「浄信」の語から一念を信であるとされたのである。
もちろん、なんまんだぶと称える行業は御開山が『尊号真像銘文』で、
正定の業因はすなはちこれ仏名をとなふるなり。正定の因といふは、かならず無上涅槃のさとりをひらくたねと申すなり。 「称名必得生依仏本願故」といふは、御名を称するはかならず安楽浄土に往生を得るなり、仏の本願によるがゆゑなりとのたまへり。(*)
と、示されるように「無上涅槃のさとりをひらくたね」である。正信念仏偈に「本願名号正定業」といわれる由縁である。
仏の願によって選択された名号(なんまんだぶ)を受け入れ受容して、なんまんだぶを称えることを信というのである。
そもそも、御開山の主著は自らが『顕浄土真実教行証文類』とされておられるように教と行と証の、教えと行いとあかし(証)を顕されたもので「教・行・証」の三つによって、法然聖人からうけられた浄土の真実を顕されたのである。
智慧光のちからより
本師源空あらはれて
浄土真宗をひらきつつ
選択本願のべたまふ (*)
と、讃詠される所以である。
もちろん『教文類』で、
つつしんで浄土真宗を案ずるに、二種の回向あり。一つには往相、二つには還相なり。往相の回向について真実の教行信証あり。(*)
「真実の教行信証」と、されておられ、『顕浄土真実教行証文類』の内容は、教・行・信・証となっているから「教行信証」という呼び名は間違いではない。
しかし、御開山が「教行証」と仰ったのであるから、御開山の主著を「教行証」と呼ぼうというのは関東の弟子の共通認識であったのであろう。
このことは、蓮如上人と同時代の高田派の真慧上人述の『顯正流義鈔』で『顕浄土真実教行証文類』を「教行証」と呼称していることからも窺える。『顯正流義鈔』はここにUPしておいたので一読されたし。
つまり、御開山は法然聖人から聞かれたご法義を、『歎異抄』の著者が記すように、
親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひと(法然)の仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり。(*)
と、述懐されるとおりである。
しこうして、その「ただ念仏」ということは、阿弥陀如来が回向された菩提心であるということを顕すために、なんまんだぶの行から信を別開されたのは、『往生論註』の如実修行の意を顕さんとされたからである。
自らが選択した行業ではなく、阿弥陀如来が選択摂取してくださっら行であると受け容れることを実の如く行を修するとされ、それを行じていることを本願力によって回向される信であるとされたのである。その、往生の業因である、なんまんだぶを称える信は、阿弥陀如来が回向する仏心であるから真実の信なのである。
これが、願作仏心である回向された他力の菩提心なのである。
なんまんだぶと称える行業は、林遊の上に仏にならさしめようという阿弥陀如来の信心(回向された菩提心)が顕現している相状なのである。
この回向された、なんまんだぶを称えていることを指して、本願力回向の菩提心であり信心であり仏性を聞く聞見というのである。
信心正因ということは、なんまんだぶを称えている者の、本願力回向の行信の上で論ずるのであって、なんまんだぶを称えない観念の信を論ずる行無き輩の上では論じないのである。
しこうして、第十八願の信なき行(なんまんだぶ)を称える輩であっても、真実の報土中の化土までは生まれさせるというのが、果遂の願(第二十願)であった。
それにしても、仏教は行じて証するのであるが、善導大師のいわれるごとく、
ただその願のみあるは、願すなはち虚しくしてまた至るところなし。 かならずすべからく願行あひ扶けて所為みな剋すべしと。 (*)
ではある。
なんまんだぶを称える選択本願の行の上で信を論ずるのだが、行無き信は、観念の遊戯にしかすぎないのではあった。
なんまんだぶを称えなさい。なぜなら仏の選んだ行であるから。
なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ
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