民主主義教育の悪弊というか、かって幼稚園の運動会で能力に差をつけることは差別である、という発想があったそうだ。
いわゆる足のはやい園児とビリの園児という差をつけることが差別であると思ったのであろう。
そして、ゴールインの時は、はやい園児はゴールの前で足踏みをし、最も遅い園児を待って手をつないでゴールするよう指導がなされていたとの事である。
このような発想そのものが一人ひとりの個性を抑圧する全体主義的発想なのだが、頭の悪そうな戦後似非民主主義が生んだ奇胎の教師であろうと思ふ。民主主義という言葉には衆愚という意味が内包されていて、これとの闘いが西欧デモクラシーという思想の基底にあるそうだが、インスタント民主主義者には理解できない概念であろう。
能力のある者はその能力を発揮して、その能力に応じた結果を得るのであり、能力の乏しい者は劣なる果を受けるという、優勝劣敗のルールはこの娑婆世界ではあたり前のことである。
さて、なんまんだぶを称えて仏陀と同じような覚りを得るというご法義であるが、このご法義こそ平等という理念に立脚した宗教ではある。しこうして、公平という基準の我らの生きている世界に、なんまんだぶを称えることで、生き方も問わない、智慧や善功も問わずに平等に仏になれるというご法義を、人類史上初めて示して下さったのが法然聖人であった。念仏という行業を口称であると徹底されたのである。
これをうけられた御開山が、なんまんだぶを称える行為は、本願を聞くことであり、本願に誓われた行を受容することであるとされ、それを阿弥陀如来から回向された、行と信であるとされたのである。
回向された信であるならば、その信に報いるために、口業にあらわれる往生の業因を修すことは、人が生きる上での、ひまつぶしの御恩報謝ともいえるのであろう。行じて証すのである。まさに法然聖人が仰るように「信おば一念に生るととり、行おば一形をはげむべし」
(西方指南抄)(*)である。
ちょっと長いけど、平等という立場から難易義を論じておられる法然聖人の『選択本願念仏集』からの引用。
難易義
しかればすなはち仏の名号の功徳、余の一切の功徳に勝れたり。ゆゑに劣を捨てて勝を取りてもつて本願となしたまへるか。次に難易の義とは、念仏は修しやすし、諸行は修しがたし。
このゆゑに『往生礼讃』にいはく、
「問ひていはく、なんがゆゑぞ、観をなさしめずしてただちにもつぱら名字を称せしむるは、なんの意かあるや。
答へていはく、すなはち衆生障重く、境は細く心は粗し。識颺り神飛びて、観成就しがたきによるなり。ここをもつて大聖(釈尊)悲憐して、ただちにもつぱら名字を称せよと勧めたまふ。まさしく称名の易きによるがゆゑに、相続してすなはち生ず」と。[以上]
また『往生要集』(下)に、「問ひていはく、一切の善業おのおの利益あり、おのおの往生を得。なんがゆゑぞただ念仏一門を勧むるや。
答へていはく、いま念仏を勧むることは、これ余の種々の妙行を遮せんとにはあらず。ただこれ男女・貴賤、行住坐臥を簡ばず、時処諸縁を論ぜず、これを修するに難からず、乃至、臨終に往生を願求するに、その便宜を得たるは念仏にしかざればなり」と。[以上]
ゆゑに知りぬ、念仏は易きがゆゑに一切に通ず。諸行は難きがゆゑに諸機に通ぜず。
しかればすなはち一切衆生をして平等に往生せしめんがために、難を捨て易を取りて、本願となしたまへるか。もしそれ造像起塔をもつて本願となさば、貧窮困乏の類はさだめて往生の望みを絶たん。しかも富貴のものは少なく、貧賤のものははなはだ多し。もし智慧高才をもつて本願となさば、愚鈍下智のものはさだめて往生の望みを絶たん。しかも智慧のものは少なく、愚痴のものははなはだ多し。
もし多聞多見をもつて本願となさば、少聞少見の輩はさだめて往生の望みを絶たん。しかも多聞のものは少なく、少聞のものははなはだ多し。もし持戒持律をもつて本願となさば、破戒無戒の人はさだめて往生の望みを絶たん。しかも持戒のものは少なく、破戒のものははなはだ多し。自余の諸行これに准じて知るべし。
まさに知るべし、上の諸行等をもつて本願となさば、往生を得るものは少なく、往生せざるものは多からん。しかればすなはち弥陀如来、法蔵比丘の昔平等の慈悲に催されて、あまねく一切を摂せんがために、造像起塔等の諸行をもつて往生の本願となしたまはず。
ただ称名念仏一行をもつてその本願となしたまへり。ゆゑに法照禅師の『五会法事讃』にいはく、
「かの仏の因中に弘誓を立てたまへり。名を聞きてわれを念ぜばすべて迎へに来らん。
貧窮と富貴とを簡ばず、下智と高才とを簡ばず、
多聞にして浄戒を持つを簡ばず、破戒にして罪根の深きをも簡ばず。
ただ心を回して多く念仏せば、よく瓦礫をして変じて金となさしめん」と。{以上}
ちなみにこの讃は御開山も平等の救いをあらわすために『唯信鈔文意』(*)でも、とありあげておられる。
ちゅうわけで、『興福寺奏状』(*)の第六に浄土に暗き失の、平等という貞慶解脱上人のいわれる仏界平等の平等について考察してみた。