観経を読んでみた。

林遊@なんまんだぶつ Posted in つれづれ
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御開山は「化巻」で『観経』の解釈の仕方を十三の文をあげて示しておられる。
この文例が漢文なので漢文の『観経』と照らし合わせて解釈してみた(*)
以下その中から「於現身中得念仏三昧」をUPしてみる。

「於現身中得念仏三昧」といへり、すなはちこれ定観成就の益は、念仏三昧を獲るをもつて観の益とすることを顕す。すなはち観門をもつて方便の教とせるなり。(*)(十三文例)。

◇定観成就の「真身観」の直前で、「於現身中得念仏三昧」と説かれているのは、定観が成就して得られる利益は念仏三昧であるとされる。この念仏三昧は『観経』の当面では観仏三昧のことである。三昧とはサマーディ(samādhi)の音写で、精神を統一し安定させることであるから三昧といわれるのであり観想の観仏三昧のことである。しかし御開山は、この定観(真身観)が成就すれば阿弥陀仏の真身が見える。真身が見えたら「一一光明 遍照十方世界 念仏衆生摂取不捨」(一々の光明は、あまねく十方世界を照らし、念仏の衆生を摂取して捨てたまはず)という「念仏衆生摂取不捨」ということが判る。この念仏とは善導大師によれば称名(なんまんだぶ)である。そうすると定観成就の益とは、称名念仏している者が摂取されているという事が判ることである。すると定観は必要ではなかったという事が判り、実は定観は不必要であるということが定観の益であるということになる。このことを「定観成就の益は、念仏三昧を獲るをもつて観の益とする」とされたのである。

このような見方は善導大師が、『観経』の結論である「流通分」の「なんぢ、よくこの語を持て。この語を持てといふは、すなはちこれ無量寿仏の名を持てとなり」(*)を、「上来定散両門の益を説くといへども、仏の本願に望むるに、意、衆生をして一向にもつぱら弥陀仏の名を称せしむるにあり」(*)とされたことや、「玄義分」p.305で「いまこの『観経』はすなはち観仏三昧をもつて宗となし、また念仏三昧をもつて宗となす」(*)と、一経に観仏三昧の法と念仏三昧の法が説かれているとされたことに示唆されたのであろう。
念仏が称名(なんまんだぶ)であることは、善導大師が、この「真身観」中の以下の釈で判る。
「自余の衆行はこれ善と名づくといへども、もし念仏に比ぶれば、まつたく比校にあらず。このゆゑに諸経のなかに処々に広く念仏の功能を讃めたり。 『無量寿経』の四十八願のなかのごときは、ただもつぱら弥陀の名号を念じて生ずることを得と明かす。 また『弥陀経』のなかのごときは、一日七日もつぱら弥陀の名号を念じて生ずることを得と。 また十方恒沙の諸仏の証誠虚しからずと。 またこの『経』(観経)の定散の文のなかに、ただもつぱら名号を念じて生ずることを得と標せり。 この例一にあらず。 広く念仏三昧を顕しをはりぬ」(*)p.437。

名号を念じるのであるから明らかに称名念仏のなんまんだぶのことである。御開山は『観経』の教説に真仮を見られ、「またこの『経』(観経)に真実あり。これすなはち金剛の真心を開きて、摂取不捨を顕さんと欲す。」(*)「化巻」p.392と、『観経』の真実義は、無量寿仏が念仏する者を摂取不捨されることであるとされるのであった。念仏衆生摂取不捨ということは常人にはほぼ不可能な定善観が完成して初めて判ることなのだが、我々はこれを七祖の伝統の上で、御開山からお聞きするのである。これを見聞一致といい、聞くことは見「知ること」であり信知であり、これを聞見というのである。なお、聞見という言葉は「真仏土巻」で「もし観察して知ることを得んと欲はば、二つの因縁あり。一つには眼見、二つには聞見なり」(*)とある。

信一念釈の「「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。」とは、仏願の生起(機の深信)と本末(法の深信)のことであり、なんまんだぶを称える者を摂取して捨てないということを聞信することなのである。 御開山は、阿弥陀仏の名義(名号の意義、いわれ)を

十方微塵世界
念仏の衆生をみそなはし
摂取してすてざれば
阿弥陀となづけたてまつる。

と讃詠されておられるのはその意である。自己の思い固めた信心を捨て、本願に誓われたなんまんだぶを称え聞く時、念仏往生の願(第十八願名)に包まれている汝としての自己を見出すのである。念仏の衆生を摂取して捨てないのであり、信心正因の語に幻惑され、なんまんだぶも称えずに観念の信心ごっこをしている者を救うご法義ではないのである。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ、よかったな