『論註』で引文されている『浄土論』の文をCSSを使って判りやすくしてみた(*)。
これで、『論註』を読めば『浄土論』を読んだことになるかも(笑
そもそも『浄土論』は天親菩薩が瑜伽唯識の立場で阿弥陀如来の浄土を描き出す書物であるのだが、曇鸞大師は龍樹菩薩の視点で『浄土論』を解釈してなさるんだろうなと思ふ。ちなみに五念門とは五つの念仏の法門という意味であり、この五念門を、なんまんだぶの一行に統一された論であると見られたのが御開山であった。
いわゆる一声の、なんまんだぶに五念門の徳の全てが備わっていると見られたのであろう。なんまんだぶとは仏陀の悟りの世界が私において顕現している相なのである。
ここいらへんは、自己を主体として阿弥陀如来を他であるとし、他者による救済が他力であるという通俗的な他力という考え方を『論註』の覈求其本釈によって、他とは私であり自からなる阿弥陀如来が他なる私を救済する仏願の生起のところから考察されたのであろう。(*)「証巻」で「ねんごろに他利利他の深義を弘宣したまへり」といわれる所以である。これを越前の門徒は「阿弥陀さまのひとりばたらき」と表現していたのである。
『無量寿経』で、四十八願の成就を宣説し、この願が成就したことを記者会見をし、重ねて、
「我至成仏道 名声超十方 究竟靡不聞 誓不成正覚」(われ仏道を成るに至りて、名声十方に超えん。究竟して聞ゆるところなくは、誓ひて正覚を成らじ)
とされたのであった。(記者会見という表現はあらゆる人に知らしめるという意で遇って他の意はない、為念)
御開山は、この重誓偈の文を「正信念仏偈」に引文され、超十方を聞十方とされ「重誓名声聞十方」とされておられるのも、自己を主体として悟りの世界を妄想するのではなく、主である阿弥陀如来が他である本願の対象である他である私に、なんまんだぶを称えるという世界を示して下さったのではある。
ここいらへんは難しいな。第十八願にだけある「若不生者不取正覚」と、あるのは、阿弥陀如来の自己の内に他なる己を見出して自他一如の智慧が慈悲となる教説ではあった。
そんなこんなで、大正デモリクラシーの時代には、このご法義内にも「恩寵主義」という思想があったのだが、昨今の坊主どもは、恩寵主義者かもな。あの御開山が見ておられた悟りの世界を知らんから、どもならんな。
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