法然聖人の語録『和語灯録』を編集中。
当時は文章を読むという行為は声に出すということだったそうだが、自らが発した言葉を自らが聞くということを大事にしたのであろう。そもそも、人類が文字を使い始めたのは5千年ほど前からとされ、人は眼から入った文字情報を脳内で音に変換して認識しているといわれる。
この眼からの文字情報を、音に変換する機能がうまく働かない人を指して識字障害というそうだが、言葉とは本来、耳で聞くものであって眼で認識するものではないのであろう。
ただ、漢字は象形文字であるから眼で表象情報を得るのだが、それを言葉の領域に導入して概念化するには音に変換する必要があるのだと思ふ。小学生の頃に朗読の宿題というものがあったが、言葉は音であるということを知らしめる意味もあったのであろうと思ふ。
そのような意味では、法要で坊主が自分自身で意味も判らずに経典を音読するという行為にも意味があるのであろう。
と、いうわけで800年ほど前の法然聖人の語録であるが、声に出して読むと耳底に響くものがあると思案していたりする。聞其名号の「梵声悟深遠 微妙聞十方」(浄土論)の、なんまんだぶではあるな。
ちゅう訳で『和語灯録』の三部経釈は、「三部経大意」と少しく趣旨が違うので、御誓言の書(いわゆる一枚起請文)以下をリンクしておく。
「御誓言の書」