法然聖人の語録を拝見していると、御開山が仰っていることは法然聖人が述べられたことを敷衍して整理発展してなさるんじゃなと思ふ。
御開山は、五願立法といって、根本の第十八願を、第十一願、第十二願、第十三願、第十七願、そして本願力による還相の第二十二願を釈されておられる。
このうち、第十八願の念仏往生の願は当然として、第十二願、第十三願、そして諸仏称揚の願の第十七願をあげておられるのは法然聖人が先駆であった。法然聖人が『三部経大意』(*)に明かされる願の意図を御開山が正確に相承された結果であろう。
さて、浄土真宗における救いは何であるかであるが、それは名号(なんまんだぶ)である。時々「信心正因」の語に幻惑されて、ありもしない信心なるものを自らの心に問うのであるが、これは間違いである。救いの法(なんまんだぶ)を抜きにして信心を論ずるから訳が判らなくなるのである。「以光明名号 摂化十方 但使信心求念」(礼讃)であって浄土真宗の信心とは、名号(なんまんだぶ)が私のものになったところを論ずるのである。古人が、「名号の機にあるのを信心という」と示される所以である。
と、いうわけで、法然聖人の『三部経大意』から、御開山の「両重因縁釈」の元になった文章を引用してみる。
つぎに名号をもて因として、衆生を引摂せむがために、念仏往生の願をたてたまへり。第十八願の願これなり。その名を往生の因としたまへることを、一切衆生にあまねくきかしめむがために諸仏称揚の願をたてたまへり、第十七の願これなり。
このゆへに釈迦如来のこの土にしてときたまふがごとく、十方におのおの恒河沙の仏ましまして、おなじくこれをしめしたまへるなり。しかれば光明の縁あまねく十方世界をてらしてもらすことなく、名号の因は十方諸仏称讃したまひてきこへずといふことなし。
「我至成仏道、名声超十方、究竟靡所聞、誓不成正覚」{大経巻上}とちかひたまひし、このゆへなり。しかればすなわち、光明の縁と名号の因と和合せば、摂取不捨の益をかぶらむことうたがふべからず。
このゆへに『往生礼讃』の序にいはく、「諸仏の所証は平等にして、これひとつなれども、もし願行をもてきたしおさむれば、因縁なきにあらず。しかも弥陀世尊もと深重の誓願をおこして、光明・名号をもて十方を摂取したまふ」といへり。
この法然聖人の『三部経大意』の意を正確に相承されたのが、以下の御開山の両重因縁釈」(*)である。
まことに知んぬ、徳号の慈父ましまさずは能生の因闕けなん。光明の悲母ましまさずは所生の縁乖きなん。能所の因縁和合すべしといへども、信心の業識にあらずは光明土に到ることなし。
真実信の業識、これすなはち内因とす。光明名の父母、これすなはち外縁とす。内外の因縁和合して報土の真身を得証す。ゆゑに宗師(善導)は、「光明名号をもつて十方を摂化したまふ、ただ信心をして求念せしむ」(礼讃 六五九)とのたまへり。
また「念仏成仏これ真宗」(五会法事讃)といへり。また「真宗遇ひがたし」(散善義 五〇一)といへるをや、知るべしと。
現代語:
(阿弥陀仏という名は、念仏の衆生を摂取して捨てないといういわれを顕しているということによって)次のような事柄を知ることができました。阿弥陀仏の徳のすべてがこもっている慈父に譬えられるような名号がましまさなかったならば、往生を可能にする因が欠けるでしょう。また念仏の衆生を摂取して護りたまう悲母に譬えられるような光明がましまさなかったならば、往生を可能にする縁がないことになりましょう。
しかしこれらの因と緑とが揃っていたとしても、もし念仏の衆生を摂取して捨てないという光明・名号のいわれを疑いなく信受するという信心がなければ、さとりの境界である光明無量の浄土に到ることはできません。信心は個体発生の根元である業識に譬えられるようなものです。それゆえ、往生の真因を機のうえで的示するならば、真実の信心を業識のように内に開ける因とし、母なる光明と父なる名号とは、外から加わる法縁とみなすべきです。これら内外の因縁がそろって、真実の報土に往生し、仏と同体のさとりを得るのです。
それゆえ善導大師は『往生礼讃』の前序に、「阿弥陀仏は、光明と名号をもって十方の世界のあらゆる衆生を育て導いてくださいます。そのお陰で私たちは、その救いのまことであることを疑いなく信受して往生一定と浄土を期するばかりです」といわれ、また『五会法事讃』には、「念仏して成仏することこそ真実の仏法である」といわれ、また『観経疏』には、「真実のみ教えには、私のはからいで遇うことは決してできない」といわれています。よく知るべきです。
浄土真宗は、念仏抜きの「信心成仏是真宗」の御法義ではないのである。
私の口先に、なんまんだぶ、なんまんだぶと称える/称えられる行業が、
「安養浄土の往生の正因は念仏を本とすと申す御ことなりとしるべし。正因といふは、浄土に生れて仏にかならず成るたねと申すなり。」(*)であったのである。ちなみに御開山が信心正因とおっしゃるのは、大乗仏教の結論である『涅槃経』の教説によって、悉有仏性を信心仏性と言いたいためであった。(*)
なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ