良寛さんの漢詩を味わっててふと思ふ。
漢文に比べて現代語とか読み下し文は、判り易い。しかし漢字という文字の個々の意味に対しての考察が足りなくなるように思ふ。もちろん情緒的な詩文と宗教言語と表現形式の違いはあるのだが、漢文は単純な分だけ意味の深さを探れるように思ふ。
と、いうわけで『愚禿鈔』(*)から二河譬の「汝一心正念にして直ちに来れ、我能く護らん」の漢字の意味を窺ってみる。
この一文は林遊に対して、汝と呼びかれられるところが好きなので時々暗誦していたりする。いわゆる、汝としての自己の発見である。
汝一心 正念直来 我能護
「また、西の岸の上に、人ありて喚ばうていはく、〈汝一心正念にして直ちに来れ、我能く護らん〉」といふは、
「西の岸の上に、人ありて喚ばうていはく」といふは、阿弥陀如来の誓願なり。
「汝」の言は行者なり、これすなはち必定の菩薩と名づく。
龍樹大士『十住毘婆沙論』にいはく、「即時入必定」(*)となり。
曇鸞菩薩の『論』には、「入正定聚之数」(*)といへり。
善導和尚は、「希有人なり、最勝人なり、妙好人なり、好人なり、上上人なり、真仏弟子なり」(*)といへり。
「一心」の言は、真実の信心なり。
「正念」の言は、選択摂取の本願なり、また第一希有の行(*)なり、金剛不壊の心なり。
「直」の言は、回に対し迂に対するなり。
また「直」の言は、方便仮門を捨てて如来大願の他力に帰するなり、諸仏出世の直説を顕さしめんと欲してなり。
「来」の言は、去に対し往に対するなり。また報土に還来せしめんと欲してなり。
「我」の言は、尽十方無礙光如来なり、不可思議光仏なり。
「能」の言は、不堪に対するなり、疑心の人なり。
「護」の言は、阿弥陀仏果成の正意を顕すなり、また摂取不捨を形すの貌なり、すなはちこれ現生護念なり。
浄土真宗のなんまんだぶのご法義は、本願力回向の宗義であるから求道ということはあり得ないのである。ところが『観経疏』散善義の回向発願心釈に二河白道の譬えがあるので、これを求道と勘違いする輩が時々いる。こういうと、それでは聴聞は求道ではないのかと時々問う輩がいる。浄土真宗の聴聞は因位の阿弥陀如来(法蔵菩薩)が五劫兆載永劫かかって選択摂取して下さった願心を聴くのである。これを素直に聴けば聞えるのであるが、自らが求道という蟻地獄に嵌っている人には聞えないのであろう。
そもそも聴聞とは、法蔵から弥陀へという仏願の生起本末を聞くのである。この聞が信である。浄土真宗というご法義は、私の側の話ではなく、私の思いと無関係に、阿弥陀仏が一方的に願心荘厳と浄土を建立して、「汝一心正念にして直ちに来れ」というのである。
汝の生き方や思想・信条・善悪・賢愚・老少等々を問わず、唯々なんまんだぶを称えて来いというのである。
御開山は正念を、「第一希有の行」とお示しなのは、なんまんだぶを称えて本願の大道を歩んで来いということである。「第一希有の行」と菩薩や声聞や縁覚まして凡夫の修す行ではなく、第十七願の諸仏の行である南無阿弥陀仏を行じるから希有の行と仰せなのである。これが大行なのである。
この諸仏の行である、なんまんだぶが私の上で行じられる受け心を、選択摂取の本願と言い、一心とも金剛不壊の心ともいうのである。声となった、なんまんだぶは救いの行法であり、それを受け容れて、「念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり」(*)である。この摂取不捨のゆえに「即時入必定」とも「入正定聚之数」ともいい、「希有人なり、最勝人なり、妙好人なり、好人なり、上上人なり、真仏弟子なり」と讃じてくださるのである。
それにしても、利他力のご法義をお伝えする僧分が、二河譬をよく理解していないから、「凡按大信海者、不簡貴賤緇素、不謂男女老少、不問造罪多少、不論修行久近」(おほよそ大信海を案ずれば、貴賤緇素を簡ばず、男女・老少をいはず、造罪の多少を問はず、修行の久近を論ぜず)(*)という絶対平等の救いを説ききらず、二河白道の道の言葉に拘泥して求道という概念を二河譬に導入したのかもと思っていたりする。いわゆる近代教学に毒されて自らを啓蒙する指導者であると誤解したからなのであろう。
二河譬は、乗彼願力之道(かの願力の道に乗ず)る譬喩であり、求道を表現している譬えではないのである。