無上の功徳を具足するなり

林遊@なんまんだぶつ Posted in つれづれ
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林遊は読経坊主ではないので、『無量寿経』を読誦すると約一時間半ほどかかる。もちろん最近の坊さんが読誦する中抜きの経ではない。
そしていつも思うのだが、自分だけで味わって読む場合は、発起序の五徳瑞現と第十八願と中ほどの本願成就文、そして流通分の『無量寿経』の結論である、乃至一念の念仏大利を読むだけでいいのではないかと思ふ。

五徳瑞現とは、釈尊の侍者である阿難尊者が、ある日釈尊が通常と違うお姿を示されたので、いぶかしく思い、その理由を釈尊に尋ねられた一節である。

「〈今日世尊、諸根悦予し、姿色清浄にして光顔巍々とましますこと、あきらかなる鏡の浄き影、表裏に暢るがごとし。威容顕曜にして超絶したまへること無量なり。いまだかつて瞻覩せず、殊妙なること今のごとくましますをば。
ややしかなり。大聖、わが心に念言すらく、今日世尊、奇特の法に住したまへり。今日世雄、仏の所住に住したまへり。今日世眼、導師の行に住したまへり。今日世英、最勝の道に住したまへり。今日天尊、如来の徳を行じたまへり。去・来・現の仏、仏と仏とあひ念じたまへり。いまの仏も諸仏を念じたまふことなきことを得んや。なんがゆゑぞ威神の光、光いまししかる〉と。
ここに世尊、阿難に告げてのたまはく、諸天のなんぢを教へて来して仏に問はしむるや、みづから慧見をもつて威顔を問へるや〉と。阿難、仏にまうさく、〈諸天の来りてわれを教ふるものあることなけん。みづから所見をもつてこの義を問ひたてまつるならくのみ〉と。
仏ののたまはく、〈善いかな阿難、問へるところはなはだ快し。深き智慧、真妙の弁才を発して、衆生を愍念せんとしてこの慧義を問へり。如来無蓋の大悲をもつて三界を矜哀したまふ。世に出興するゆゑは、道教を光闡して、群萌を拯ひ恵むに真実の利をもつてせんと欲してなり。無量億劫に値ひがたく見たてまつりがたきこと、なほし霊瑞華の時ありて時にいまし出づるがごとし。いま問へるところは饒益するところ多し、一切の諸天・人民を開化す。阿難まさに知るべし、如来の正覚は、その智量りがたくして、導御したまふところ多し。慧見無碍にしてよく遏絶することなし〉」と。(*)

いわゆる、「去来現仏 仏仏相念」と、過去・現在・未来の仏と相念じたまう釈尊の姿を拝謁した阿難尊者の問いが無量寿経の説かれた縁由である。御開山は「正信念仏偈」で「如来所以興出世 唯説弥陀本願海」と讃詠されておられる。

ここで釈尊は、「如来無蓋の大悲をもつて三界を矜哀したまふ。世に出興するゆゑは、道教を光闡して、群萌を拯ひ恵むに真実の利をもつてせんと欲してなり。」と、仏陀が世に出興する所以(理由)は、「真実の利をもつてせんと欲してなり」であると述べられる。以下長々と阿弥陀仏についての説教があるのだが、要をいえば、『無量寿経』とは、真実の利を説くということである。

この真実の利益(りやく)とは何かということは、『無量寿経』の教説を後世に伝えるエッセンスである「流通分」を見れば判る。
『無量寿経』の主題の教旨を釈尊の教説を、未来の衆生に告げる役割の弥勒菩薩に付属されるのが以下の文である。

 仏、弥勒に語りたまはく、「それかの仏の名号を聞くことを得て、歓喜踊躍して乃至一念せんことあらん。まさに知るべし、この人は大利を得とす。すなはちこれ無上の功徳を具足するなりと。
このゆゑに弥勒、たとひ大火ありて三千大千世界に充満すとも、かならずまさにこれを過ぎて、この経法を聞きて歓喜信楽し、受持読誦して説のごとく修行すべし。(*)

『無量寿経』の当初(五徳瑞現)で釈尊が「群萌を拯ひ恵むに真実の利をもつてせんと欲してなり」と仰った真実の利(大利)とは、阿弥陀如来の<み名>、なんまんだぶを称え、そして聞くことであったのである。それが、真実の利である「大利を得」ということなのである。無明の闇に閉ざされた心に、声と言葉になって顕現してくださるのが、なんまんだぶの一声・一声である。

この一声を御開山は行の一念と仰るのである。以下の「行一念釈」は、あきらかに「信一念釈」と対応しているのが判る。

 おほよそ往相回向の行信について、行にすなはち一念あり、また信に一念あり。行の一念といふは、いはく、称名の遍数について選択易行の至極を顕開す。(*)

最近は、僧俗ともに「信心正因」の語に幻惑されてからか、信一念ばかりを論じ、『無量寿経』流通分の弥勒付属の一声を軽視しているように思ふ。

御開山は、この行の一念を釈して、

 『経』(大経)に「乃至」といひ、釈(散善義)に「下至」といへり。乃下その言異なりといへども、その意これ一つなり。また乃至とは一多包容の言なり。

大利といふは小利に対せるの言なり。無上といふは有上に対せるの言なり。まことに知んぬ、大利無上は一乗真実の利益なり。小利有上はすなはちこれ八万四千の仮門なり。
釈(散善義)に「専心」といへるはすなはち一心なり、二心なきことを形すなり。「専念」といへるはすなはち一行なり、二行なきことを形(あらわ)すなり。いま弥勒付属の一念はすなはちこれ一声なり。一声すなはちこれ一念なり。一念すなはちこれ一行なり。一行すなはちこれ正行なり。正行すなはちこれ正業なり。正業すなはちこれ正念なり。正念すなはちこれ念仏なり。すなはちこれ南無阿弥陀仏なり。(*)

と仰っておられる。
もちろん御開山の仰るように、本願力回向のご信心とは、因としての仏心であり、「願作仏心 度衆生心」の他力の菩提心であり、信心仏性でもあるから、信一発の時、往生成仏は定まるのである。

しこうして、その信の本体とは、本願力回向のなんまんだぶである。
御開山が、「無量寿経」の宗を本願であるとし、名号がその体であると示された所以である(*)。この「無量寿経」の体であるなんまんだぶを称えさせ聞かしめようというのが本願である。これが「大利無上は一乗真実の利益なり」であった。

なんまんだぶを称える人生は、まさに御開山がなんまんだぶを讃嘆しておられるように、

 しかれば大悲の願船に乗じて光明の広海に浮びぬれば、至徳の風静かに、衆禍の波転ず。すなはち無明の闇を破し、すみやかに無量光明土に到りて大般涅槃を証す、普賢の徳に遵ふなり、知るべしと。(*)

なのである。
ほぼ無限といわれる阿僧祇劫の時を経て仏になる道ではなく、すみやかに、往生成仏の大般涅槃を証し、還相の菩薩として普賢の徳を行ぜしめる本願の大道であった。「還相の利益は利他の正意を顕すなり」(*)とされる所以である。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ