襟巻の あたたかそうな黒坊主

林遊@なんまんだぶつ Posted in つれづれ
0

口の悪い一休宗純師が、御開山のお木像を見ての、

襟巻の あたたかそうな黒坊主 こやつが法は 天下一なり。

との、句があるそうである。
信疑未詳の句だが、いわゆる襟巻きとは帽子(もうす)である。御開山の肖像の場合は、ほぼ襟巻きであるように見える。
で、家内が、酔っ払ってついつい炬燵で転寝して朝になる林遊に、襟足が寒いと風邪ひくわよ、とのことで御開山みたいでしょ、と首巻きを買ってきてくれた。
素材はたぶんポリエステル系なのだろうけど、肌ざわりがぴったりくるので愛用している。御開山の帽子はたぶん真綿という絹由来だと思うけど、起毛の肌触りだけは御開山に勝ったかもなと思ふ(笑

ちなみに画像は、御開山が熊皮を敷いておられることから熊皮のご影と呼称されている。
面白いのは、珠数をつまぐっておられるところである。そもそも珠数とは念仏の数を計算する加算器であって、念仏の数を親指でつまぐって念珠の数を数える道具である。珠数を一巡したら、珠数の下部にある珠を一つ下げ、珠数の数x下部の珠だけ、なんまんだぶを称えたことを知る加算器であろう。
法然聖人は、『一百四十五箇条問答』で、一日に称える、なんまんだぶの数を定めるのは善いことでしょうかという問いに、数を定めなかったら懈怠になるから数を定めるのは善いことですよと仰っておられる。
もちろん、一声の、なんまんだぶで往生決定なのであるが、「信をは一念にむまるととりて、行をは一形にはけむ」(*)のが、なんまんだぶであろう。御開山は信を強調されるが決して、なんまんだぶを称えるという行を軽視したのではなかった。
後年、後継者が鎮西浄土宗との差別化をはかるために、あの阿弥陀如来の覚りの世界から回向される救済の教法である、なんまんだぶを受け容れることの信心を強調して、行無き仏教を説くから浄土真宗は衰退したのであろう。
あまつさえ、大谷派の莫迦坊主どもは、御開山の仰る往生浄土の真宗の往生を現世にとるから莫迦である。汝らは宗祖の描いておられる、あの不可称、不可説、不可思議の覚りの世界である浄土を、凡愚の思義の世界に引きずり降ろしているのだが、莫迦は莫迦だから如何ともしがたい。多分真宗を呼称して宗名に浄土の文が欠けているからであろう。