後生ってなんやろ

林遊@なんまんだぶつ Post in つれづれ
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蓮如さんは後生の一大事ということにうるさい。しこうして、「後生」という漢字熟語は、(こうせい)とも読める。
後生を、(こうせい)と読めば、私の存在しない世、つまり私が残していく私のいない他者の世をいうのである。ところが、後生を(ごしょう)と読んだ場合は、私の死んで行く末の、私の話である。その私が死んだら私はどうなるか、という私という主体の行く末を蓮如さんは後生の一大事と仰ったのである。
これは、人が生きるという意味を考えたとき、等しく問題になる発想なのだが、この感情を利用して金儲けをしようとする輩や宗教組織があることを心に銘記しておくべきである。浄土真宗を標榜し、自らの組織の拡大や金儲けに利用する、おかしな言説に嵌るので要注意である。(*)

さて、このような後生(こうせい)と後生(ごしょう)の違いを話されたであろう大峯顕師の著書『蓮如のラディカリズム』からの一説を引用してみる。師はいわゆる哲学の徒なのだが、浄土真宗の坊さんであり、なんまんだぶのご法義にも明るい人である。

「今やっとわかりました。今まで私は死んでも何も心配ないと思っていたが、それは残していく者のことばかり考えていたわけでした」と言う人がいた。
「会社のことは息子に言ってあるし、家内には大事なものをきちんと預けてあるから、後の人たちは私が死んでも何の心配もない、私は安心して死ねると思っていた。しかしそれは私自身のことではなくて、私の亡き後に残る家族のこと、要するに他人のことであった。そればかり心配して、後顧の憂いがないようにしてきたが、この私自身がいったいどこに行くのかということを、私は今まで少しも考えてこなかった。今日お話を聞かせてもらって、ああ、そういうことか、と初めてわかった」と言われた。この方は正直である。
「いままでわからなかったが、そういう問題があったのだ。死んでいくおれはいったいどこへ行くのだろう」と。これが、蓮如上人がいわれる後生の一大事である。

いみじくも、大峯師の法話を聞いた人が問題とされたのは、三種の愛心である。
人は死ぬとき、三種類の愛心に心が覆われると示したのは源信僧都であった。『往生要集』の臨終行儀に、「境界と自体と当生との三種の愛」と、説かれているのがそれである。(*)
この三種の愛心については、自分の覚えに用に書き込んだ、wikiarcの「三種の愛心」から引用する。(*)

人の臨終の際に起こす三つの執着の心のこと。家族や財産などへの愛着である境界愛、自分自身の存在そのものに対する執着である自体愛、自身は死後どのようになるのかと憂える当生愛をいう。このような衆生の三種の愛心の障りを阿弥陀仏は安然として見ていられないので臨終に来迎するとされた。
法然聖人は、『阿弥陀経』の異訳である『称讃浄土仏摂受経』の「命終の時に臨みて、無量寿仏、其の無量の声聞の弟子菩薩衆と倶に、前後に囲繞し、其の前に来住して、慈悲加祐し、心をして乱れざらしむ。」(*)の文から、来迎があるから正念に住するのであり、正念であるから来迎があるのではないとされた。つまり臨終の正念によって仏の来迎を期待する説を否定されている。
親鸞聖人はこのような考えを継承発展され、

しかれば名を称するに、よく衆生の一切の無明を破し、よく衆生の一切の志願を満てたまふ。称名はすなはちこれ最勝真妙の正業なり。正業はすなはちこれ念仏なり。念仏はすなはちこれ南無阿弥陀仏なり。南無阿弥陀仏はすなはちこれ正念なりと、知るべしと。(*)

と、臨終の正念ではなく、南無阿弥陀仏を称えることが正念であり、なんまんだぶを称える者はすでに摂取不捨の身であるから、三種の愛心に惑わされることはないとされた。 そして、念仏を称えて来迎を期するような者は諸行の行者であり「来迎は諸行往生にあり、自力の行者なるがゆゑに。」『ご消息』(*)、とされたのである。

御開山は、臨終について自らの身にひきかえて、

まづ善信(親鸞)が身には、臨終の善悪をば申さず、信心決定のひとは、疑なければ正定聚に住することにて候ふなり。(*)

と、仰る所以である。
しかるに、それでもなお、自らの臨終をあんずる人がいるならば、毎夜毎夜死んでみることである。法然聖人は、

阿弥陀仏と十こゑとなへてまどろまん
ながきねむりになりもこそすれ (*)

と詠われたが、布団の中でこしかたの一日の出来事を思案するとともに、後生の一大事を、なんまんだぶ、なんまんだぶと十声称えて、頭のてっぺんから足の先まで、この一大事を阿弥陀如来にお任せすればいいのである。
朝、目が開いて、蓮の華が見えたら、はやお浄土であり、出門の菩薩行が楽しめるのである。見慣れた寝室の風景が見えたら、何じゃ、ここはまだ娑婆かと思えばいいのである。

これが、信も行も、なんまんだぶの一句に納めて下さった、念仏成仏の真宗であった。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ…… これが仏道の正因である。

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