選択本願念仏

林遊@なんまんだぶつ Post in つれづれ
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『教行証』での引文で『阿弥陀経』からは「化巻」の一文しか引文されていないんだよなあ。

【45】「少善根福徳の因縁をもつてかの国に生ずることを得べからず。{中略}阿弥陀仏を説くを聞きて、名号を執持せよ。」(*)

御開山は、『浄土三部経』に隠顕をたてるから、三経における、なんまんだぶという称名にも真仮を見られるのであろう。
いわゆる、『無量寿経』の、第十八願、第十九願、第二十願のそれぞれに、『無量寿経』、『観無量寿経』(御開山は『無量寿仏観経』または『観経』とされる)、『阿弥陀経』を配当されたからである。

昔の布教使は、『観経』の意による、なんまんだぶを万行随一の念仏と言い、『阿弥陀経』の意による、なんまんだぶを万行超過とし、『無量寿経』の意、つまり第十八願の、なんまんだぶを、選択本願の、なんまんだぶと言って御法話をしていたものである。

行の無い信心だけの仏教などというものは有り得ないのだが、その行である念仏を、万行(よろずの為すべきおこない)の中の一つとして修するのが万行随一の、なんまんだぶというのである。この随一という漢語は、多くの行の中の一つという意味であり、現在使われているような最高という意味ではない。あくまで、仏道の修行体系の中の一つの行であるという意味である。
これが、修諸功徳の第十九願の立場である。

しこうして、あほみたいに、ひたすら、なんまんだぶを称えるだけで、他の行業に目もくれない浄土真宗のご法義の、ほんまもんの同行を見聞して、一行一心ということに気付くのである。いわゆる、『阿弥陀経』の、「不可少善根福徳」の教説によって、なんまんだぶの一行を修する、雑(雑多な行)から純への転換である。名号を称えるという、多善根 福徳因縁への転向である。この役割を果たしているのが、多善根 福徳因縁の、なんまんだぶを称えることを勧める『阿弥陀経』である。これを、先人は万行超過(よろずの行いを超え出た)の、なんまんだぶの行と言ったのである。浄土往生を願い、一心に一行を修するのである。自らが気付き選んだ、なんまんだぶの行である。

しかるに、ある時、突然に、自らが選んだ行である、なんまんだぶならば、自らが思い描く妄想の浄土へ往生するだけではないのか? と、いう疑念が起きる。寝食を忘れて、後生、タスケタマエと、阿弥陀仏に祈願して来たがこれは凡夫の妄念ではなかったかと気付くのである。ここに知識のご化導ありであって、なんまんだぶを称える行は、阿弥陀如来の本願に選択された行である念仏行であると、知らしめられるのである。
御開山が法然聖人の語録を採集された、『西方指南抄』上末に、

しかるに往生の行は、われらがさかしく、いまはじめてはからふべきことにあらず、みなさだめおけることなり。(*)

と、あるごとく、なんまんだぶを称える行業は、阿弥陀如来が選択摂取しておいて下さった本願に選択された、念仏往生の行であったのである。これが選択本願の、なんまんだぶであった。順彼仏願故である。
これを、御開山は、六字釈で「本願招喚の勅命なり。」(*)と、仰せであったのである。ここに、主客の転換があり「汝一心正念にして来たれ」としての汝としての自己の発見があるのであるが、智愚の毒(*)に犯された、大谷派の真宗坊主には窺う術(すべ)もない世界であろうな(笑

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ

 

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