中学生の頃に算数の幾何の証明に、問いの図にはない線、つまり補助線を引いて答えを導く方法があった。図形に対する補助線がうまく引ければ答えを出すことが可能になるということである。
三平方の定理は、ピタゴラスが規則的に配置された正方形の敷石を眺めていて発見した定理だといわれるが、初めてこの定理を補助線を使って説明されたときは、わかったぁ!という知的興奮に襲われたものである。
いわゆる、Aの二乗はBの二乗+Cの二乗と等しいということであるが、Aの事情はBの事情とCの事情によるとの関係性の補助線を引くことで考察できるのであろう。
そのような意味では、新しい概念を補助線として使い、なんまんだぶのご法義を領解する方法もあるのだが、これは方法であって目的ではないということを理解しておかないと、御開山のお領解と齟齬するものが出てくると思ふ。要するに御開山の思想は御開山のところにおいて考察すべきであるということである。
と、いうわけで、一元論/二元論という概念を補助線として使い、絶対一元論の天台教学と、その一元論から必然的に生まれた現実直視の法然聖人の二元論を論じたリンク先の田村芳朗氏の説は面白い。天台の絶対一元論から法然聖人の念仏往生の二元論へ、そしてそれを内包して念仏成仏とされたのが本願力回向という浄土真宗である。御開山の著述は重層的で難解なのだが、適宜な補助線を引くことによって、より深くその意味を把握できることもあるのであろうと思ふ。
この角川の「仏教の思想シリーズ」は、たしかハードカバーを持っていた筈なのだが、何故か手元にないので文庫本から下記のリンク先の文を引用した。
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