鈴木大拙師、曾我量深師、金子大榮師の鼎談を西谷啓治師が司会された『親鸞の世界』という大谷派の書籍から引用。
迷いがおもしろい
鈴木 迷うておるということがあるが……。
曾我 迷うておるということは、やはり如がなければ迷わない。
鈴木 迷うているのもおもしろいというようなところはないんですか。
曾我 え?
鈴木 迷うておるところが…….
曾我 けど、それは先生は悟っているから、迷うのはおもしろいと──、迷うている人はおもしろくも何ともない。(笑い)
鈴木 いやこういうことがあるですね。まあなにかことがあるだろう? そうするっちゅうと理屈からいえば、もうみなちゃんときまっているので、死ぬものは死ぬ、生きるものは生きるですね。しかしながら、まあここに癌で困っている人があるとするな。これはもう医者の方でみればとうていもう死ぬんだと、こう思うですね。
けれどもだ、こっちの方から見るとだね、医者では死ぬんだが、また何かで生きるっちゅうことがあってだね。どうぞ……、というその、願いですね。もういかんのだときまっておっても、それにもかかわらず何とかよくなってくれと……。それから人が外へ旅するだろう。今日はもう電車で衝突したり。汽車がひっくり返ったり、いくらでもあるが、しかし何とかしてそういうことのないように無事にむこうに着いて、そして帰ってきてくれと、その願いが出るですね。これは理屈からいえば馬鹿なはなしだね。なるようになるんだから…….けれどもそれがわかっておってもだね。その迷いの心というか、何とかいう願いがやまないですね。わしはそこがおもしろいと思うんだ。おもしろいちゅうといかんかも知れんが、人情で苦しんで悲しんでいながら、そこになにか暖かいものを感じてだね、それですべてが包まれていくと、そんなだと迷いがおもしろくなる。
曾我 それはまあ、ただ苦しんでいないで、苦しんでいるなかにやはり楽しみがあると、こういうんですね。
鈴木 楽しみといっちゃいけないんだ。これはみんな苦しみだ、その苦しみは七転八倒の苦しみだけれども…….
曾我 何か暖かいものがなければ苦しみもしませんね。(笑い)
鈴木 そうです、(笑い) そこで金子さんはありがたいとおっしゃるかも知れんが、そういう点をだね……。
金子 ええ。
鈴木 弥陀の光りにおいてそういうことがいえるんだからね。わしの方じゃありがたいというよりも、むしろおもしろいんだ。(笑い)
曾我 いや、おもしろいということもあるし、両方あるんでしょう。(笑い)
鈴木 そうすると、そうね……、世の中を見るっちゅうと、そうなっちまうがね。
曾我 おもしろいことがなけりゃ、しょうがないですね。(笑い)
少しく対話がかみ合っていない気がする。曾我師は善悪相対の二元論の立場で語られるし、鈴木師は相対の上の一元論の立場で語っておられるのだろう。御開山にはこの両方があり、穢土と浄土の相対二元を本願力回向という概念ですっぽり包みこんで一元的に見られているのでややこしい。(笑
御開山は、ご自身の法に遇いえたよろこびを語られるとき、現在形と未来形でよろこびを語っておられる。『一念多念証文』で、
【10】 「其有得聞彼仏名号」(大経・下)といふは、本願の名号を信ずべしと、釈尊説きたまへる御のりなり。「歓喜踊躍乃至一念」といふは、「歓喜」は、うべきことをえてんずと、さきだちてかねてよろこぶこころなり。「踊」は天にをどるといふ、「躍」は地にをどるといふ、よろこぶこころのきはまりなきかたちなり、慶楽するありさまをあらはすなり。
慶はうべきことをえてのちによろこぶこころなり、楽はたのしむこころなり、これは正定聚の位をうるかたちをあらはすなり。「乃至」は、称名の遍数の定まりなきことをあらはす。(*)
と、されて、「うべきことをえてんずと、さきだちてかねてよろこぶこころなり」は、娑婆から浄土へ往生する二元的未来形のよろこびであり、「うべきことをえてのちによろこぶこころなり」という表現は、現在いまここで、なんまんだぶを称える者に顕現する、一元的な本願力回向の念仏衆生摂取不捨の「超世希有の正法」である。なんまんだぶを称え、本願のなんまんだぶの声に包摂されているからこそ、往生浄土という将(まさ)に来たるという将来する浄土という世界が開かれつつあるのであろう。このような意味で本願に包摂されている生き方は、迷いがおもしろいということもいえるのであろう。ありがたいこっちゃな。
なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ
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