論理といえば、同一律(AはAである)、 矛盾律(Aは非Aではない)、 排中律(Aと非Aの中間の存在はない)の、いわゆる西洋の形式論理の三原理というものがあるそうである。
これは人がものを考える時の基本的な法則だといわれるのだが、林遊には、よお解らんので困ったものだ(笑
梯實圓和上は、『聖典による学び』(*)で、
ところで、私どもがものを考える時に必ず従わねばならない基本的な法則がありますね。思考の法則があるでしょう。ギリシャ以来、私達がものを考える時には、必ずその思考が守らねばならない法則があります。自明の法則があります。それは、AはAである(A=A)という、いわゆる自同律ですね。
AはAである、従ってAはAでないものではない、Aは非Aではないという矛盾律が成立します。そしてAと非Aとの間に中間は存在しないという排中律と合わせますと三つの法則になりますが、中心は自同律と矛盾律でしょうね。それは私は私であるという事と、私は私でないという事と、これは矛盾します。ですから、AはAであるということ、これは守らねばならない約束事です。
とにかくAはAである。Aは非Aでないというと、これはものを考えるときには必ず守らねばならない法則です。このAと非Aを「有る」と「無い」といってもいいですね。「有」と「無」これは決して両立しない事柄です。ところで悟りの境地は、一切の束縛から解放された境地であるというので「解脱」の境地ともいいますが、「和讃」にはその境地を
解脱の光輪きはもなし
光触かぶるものはみな
有無をはなるとのべたまふ
平等覚に帰命せよ
というような言葉で讃嘆されています。それは「有無」をはなれた境地であるというのです。
「有」というのは「有る」であり、「無」というのは「無い」であって、判断でいえば、「・・・・である」という肯定と「・・・・でない」という否定ですね。これの両者を超えている、これが解脱とか、悟りというものだ、こう言われているわけです。
だからどうゆう事かといいますとそこではAはAであるという形でものを考えないということです。しかしそれではものが考えられないじゃないかといわれでしょうが、実は本当に具体的な存在は「AはAである」という考え方では捉えられないということを顕しているわけです。
「AはAである」ということは、具体的には「私は私である」という事でしょうね。これは言葉でいいますと「私」は「私」であるといったら同語反復のようです。ところが少し違う、我々が具体的に「私は私である」といった時には、「私」は「私」以外の者ではないと強調しようとしているわけです。
だからどうしたのだといったら、「私」は人とは違った「私しか生きられない私の人生を生きるのだ」といいたいわけでしょう。ここで「私は私である」といった時には、「私は私でないものではない」ということを通して、だから、「私は私である」といった時には、この初めの「私」(主語)と後の「私」(述語)とでは自覚内容が違っております。
そうすると「私」は「私」であるといった時には、ただ同語反復しているのではないのです。だから「私」は誰の生き方でもない「私」の生き方をするのだ、という自覚と自立を顕わしています。
そうしますと初めの「私」は自覚以前の「私」、それを「私である」といった時の後の「私」は自覚し自立している「私」ですから明らかに「私」の内容が違っています。そうすると初めの私(A)と後の私(A)とは違いますよ、つまり「私でないもの」(非A)を媒介とする以前の私(A)と、私でない(非A)というものを否定的に媒介して成立した後のAとではAの内容が違うということになりましょう。
違うとすれば、Aは非Aであるということになりましょう。これが現実にあるものの姿なのです。つまり現実に有るのは、AはAであるというだけでは表せない内容を持っているということになります。そうするとAはAであって、非Aではないと云う論理は崩れていくということになりますね。すこしややこしくなってきました。
お釈迦さまがおさとりになった境地というものは、AはAであって、決して非Aではないという論理では表せない領域であったのです。その意味では不思議といわねばなりませんが、実はそれが、もっとも具体的な、もののあるがままの姿を見極めておられたのだといわれています。
そこでその境地を真如(本当にあるがままのありよう)とも実相(まことのすがた)ともいわれているのです。
しかしそのような領域は、人間の分別的な思考では捉えることが出来ませんから、無分別智の領域であるともいい、二元的、対立的な言葉では言い表すことも考えることもできませんから一如ともいい、不可思議、不可説ともいいならわしてきたのです。
お釈迦さまのお経というのは、そのようなおさとりの境地に立って、その境地に私たちを導くために説き表されたものですから、言葉を超えた世界を告げる言葉であるといわねばなりません。私がお聖教の言葉は、私どもが日常使っている言葉とは質が違うともうしましたのはその故です。
お釈迦さまがおなくなりになって数百年たった西暦二・三世紀頃に南インドに龍樹菩薩が出現されて、私ども人間がその知性によって概念的に把握している世界というものは、実は分別が作り上げた虚構の世界だといい、私どもは自分が概念によって作り上げた虚構の世界を、言葉によって作り上げた虚構の世界をまるで実在であるかの如く考えて実体視し、とらわれて身動きが出来ないような状態になっている。それを迷いという。 この妄念を突き破るために如来は言葉を設けて呼びかけておられるといい、「諸仏は、二諦によって法を説く」と云われています。
二諦というのは、真諦と世俗諦のことです。真諦とは、一切の分別を超え言葉を超え離れた悟りの境地そのものをいい、その真諦を分別的な言葉で言い表して人々と接点を持ち、救うていくために教えを説くことを世俗諦というのです。つまり言葉をもって言葉を超えた世界に導くのが経典であるというのです。
お経を読んでいると面白い言葉が沢山出てきます。たとえば『金剛般若経』などには、「仏は仏でないから仏である、衆生は衆生でないから衆生である」というような言葉が幾らでも出てきます。AはAで無いからAであるというのですから、もう「AはAである」というような形式論理学ではどうしようもない表現が用いられているわけです。
鈴木大拙という方は、これを「般若即非の論理」といわれていますが、まさに、人間の概念的に物事を理解していこうとしていることに対する、破壊的な表現であるといわねばなりません。しかし先にも申しましたように、概念的にきちっと分別すれば、ただしく物事が捉えられるかといえば、どうもそうではないところがでてきます。
と、論述されておられる。
道元禅師は、私でないもの」(非A)を媒介とする私(A)、つまり、私でない(非A)を、「万法に証せらるるというは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり」と、他己と呼ばれているのもそのような意味であろう。いわゆる他なる己である。
しかして、なんまんだぶのご法義は本願力のはたらく対象を他とする他力のご法義であり、救済されるべき他を「若不生者 不取正覚」といい、衆生の往生浄土と自己の正覚を一体に誓われた不二のご法義である、他己なる非Aであるわたくしと自らの覚りを一体であると示されるのが第十八願の念仏往生の願であった。
それを、御開山は、斯心 即是 出於念仏往生之願。 (この心すなはちこれ念仏往生の願(第十八願)より出でたり)(*)と示されるのである。乃至十念の、我が名を称えよという教説であった。
と、いうわけで(どんなわけやろ)、お聖教を読んでいるとよく出てくる四句分別についての面白い考察があったのでWikiArcの四句(*)のページに追記してみた。
なんまんだぶ、なんまんだぶ、安心も信心も、なんまんだぶと称えるこの声となって耳に聞き口に誦して顕現しているのである。