三好達治について書いたことがあるのだが、越前三国町に生まれた高見順は越前産である。当時の福井県知事の庶子である。そのような意味では越前生まれということを忌避したのであろうが、晩年「おれは荒磯(ありそ)の生まれなのだ」という言葉を残している。冬の三国の日本海は、鉛色の空と岩に打ち寄せ白い飛沫をあげる荒磯の寂寥とした風景だけであるのだが、東尋坊へ続く荒磯遊歩道には彼の句碑もある。
そんな高見順に「ガラス」という句がある。
このガラスとは仏教の語彙では瑠璃(るり)とか玻璃(はり)と表現されて、閻魔大王が亡者の生前の行跡を判定するために参照する、瑠璃玻璃鏡(亡者の行為の過去を記録してある記録DVDを写す鏡)である(笑
それはそれとして、外来語でビードロとかギヤマンという蘭語のglasから硝石を使うという意味をあてて硝子(がらす)という言葉が生まれたのであろう。
高見順「ガラス」
ガラスが
すきとほるのは
それはガラスの性質であって
ガラスの働きではないが
性質がそのまま働きになっているのは
素晴らしいことだ
なんまんだぶと称えさせて生と死を超えさしめようというのが本願の本質であり性質であり意味である。
それは、本願そのものの本質であって《用》(はたらき)とは区別されるものだが、本願が、なんまんだぶと称えられて、生死を超えるはららきとなっているのは素晴らしいことだ。なんまんだぶと称える行為は、仏作仏行(仏のなす仏の行)であったのである。
自分で再読しても意味がわからん文章だけど、どうでもいいや。
なんまんだぶ、なんんまんだぶ、なんまんだぶ