浄土真宗に於ける信心は、他力(利他力)のご信心といい、宗教一般でいう信心と大きな違いがある。
浄土真宗とは『無量寿経』に説かれる阿弥陀仏の選択本願のご法義であり、具体的には弘願他力の念仏成仏の教えをいう。しかるに、世間一般でいわれる信心と綱格がまったく違うので、この本願力回向のご信心に迷う者が多い。特に信心を求めようとして、聴聞を重ね苦闘してきた方ほどその傾向が強い。もちろん真剣な求道ということを全否定するのではないが、このような求道者は信心と自覚を混同してしまい、本願に願われているということの意味を逸失してしまうのである。
この浄土真宗のおいてのご信心の構造については、末尾に参照用の文章へのリンクをしておいたが、いまここでは、七里恒順和上(1835-1900)の『七里恒順和上法話集』の一節を窺ってみよう。
問い
長いあいだ往生の大事(阿弥陀如来に救われて浄土に生まれる大問題)を心にかけ、絶えずお聞かせにあずかっていますが、一念帰命の味わいが、どうしてもわかりませぬ。願力の不思議ということも、名号ひとつのお用(はたら)き、ということも疑いませぬが、なぜ安堵のこころに住することができないのでしょうか。
答え
それは二つの病気があるからである。一つは願力の不思議と聞きながら善根を貯えようなどというこころはないけれど、落ちつきたい、落ちつきたいと思うこころが、しきりに起こる。法のお手許(てもと)をお聞かせにあずかることが後になって、安堵心がえたいと思うこころに値打ちをもたせ、信心を認めようとする。
これは多くの人が落ちいりやすい所で、このような人は、まず、そのこころの方向をかえて、お助けのお手許を、よくよく聞かねばならぬ。自分で往生の大事を気にかけて心配するよりは、五劫という長いあいだにわたって、ご心配くださったものをと思い、自分で、わが胸をながめて早く落ちつきたい、早く落ちつきたいと思うよりは、十劫正覚のあかつきから、おたがいの往生一定の時節を待ちわびたもう大悲のおこころはいかばかりであらせられるかと、附(伏?)して安じる心の向きをかえ、仰いで法のお手許をお聞かせにあずかるがよい。そうすれば、なんの疑うべきことがあろう。
「弥陀の大悲の誓海を、深く信ずる」ということは、この法のお手許のお力の強いのを、そのまま真受けにさせて頂いたことをいうのである。わが心を深めて信ずるのではないのじゃ。
二つには、往生を認めようと思う心が先になって本願を後にする病。
われらの信心は浄土を目当てにして起こすのではない。本願のお力で安堵するのである。こちらはただ、本願におまかせすればよいのじゃ。往生は仏の願力の不思議として治定せしめたもうのである。宗祖親鸞聖人も「ただ不思議と信じさせていただく上はとかくのはからいをたのんではならぬ」とおおせられてある。
わが胸のうちをながめて、とやかく思うのは、みな自力のはからいであって、このように安堵心をえたいと思うこころに値打ちをもたせ、信心を認めようと思うのは、自力の病気のせいであると思い、ひとすじに如来の願力に任せたてまつることである。
浄土真宗の信心の特色についてのリンク
→たまわりたる信心 梯實圓和上
→信心の語義 梯實圓和上
→他力の信の特色 稲城選恵和上
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