最近、ブログに書く種(ねた)がないので、FB(Facebook)に投稿した文章の再利用。
御開山って、自分の言葉で語るのではなく、自分の言いたいことを経典の文言をして語らしめようと意図されたのであろうか。
このような手法は単なる経典の引用ではなく、引文によって経典の表現を超えて自己の思想を顕わそうとする試みだが、大胆にして常識を超えているとしか思えん。
《引用》とは一義的には他の著作を自己の著作で紹介することであるが、御開山の場合は原典の文章を、原典の本来の意図した意味を超えて《引文》されておられる。つまり経・論・釈の文章を一応は用いるのだが本来の意味を転意されておられる。このような意味から御開山は単に経・論・釈を引用されたのではなく引文されたのであるといわれている。
このことは、経・論・釈の引文によって自己の著作を権威づける為ではなく、元の文章を乃至したり抄要とされておられることからも窺える。
実は、それが浄土真宗の御開山である御開山たる魅力でもあるのだが、後世の者は苦労するところでもある。信心の智慧によって開かれる世界はこのような世界をいうのであろう。ともあれ、その信心の世界が、なんまんだぶと口に称えられることは、ありがたいことである。
「仏性は大信心と名づく」(*)
なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ