信罪福心について

林遊@なんまんだぶつ Posted in つれづれ
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信罪福心

仏教とは智慧と慈悲の宗教である。浄土教では慈悲を強調するので、救済における阿弥陀如来の智慧に言及することが少ない。なお仏教における救済とは拯済ともいい、拯とは両手で拯(すくいあげる)という意味であり、済とは斉の字と通じてひとしいという意味で、救う者が救われる者を自らと等しい者にするという意をあらわす。つまり救う者が救われる者を自己と同一の覚りにするということが仏教における救済である。浄土真宗で弥陀同体の証(さとり・あかし)という所以である。

浄土真宗の救済(拯済)とは、阿弥陀如来の智慧が慈悲となって、本願を信じさせ念仏を称えさせ仏にならしめるご法義である。この慈悲とは阿弥陀如来の智慧が体である。もちろん智慧と慈悲は一体のものであり別のものではない。
御開山は、『正像末和讃』で、

(35)
智慧の念仏うることは
法蔵願力のなせるなり
信心の智慧なかりせば
いかでか涅槃をさとらまし (*)

と、智慧の念仏、信心の智慧と讃詠されておれるのもそのような意であろう。
念仏は智慧であり信心もまた、因位の法蔵菩薩であった阿弥陀如来の智慧の顕現である。この阿弥陀如来から回向される智慧を拒絶し、自業自得の因果を信じ疑いの蓋をしている心を、御開山は「信罪福心」(罪福を信じる心)と云われたのであった。

(62)
罪福信ずる行者は
仏智の不思議をうたがひて
疑城胎宮にとどまれば
三宝にはなれたてまつる (*)

罪福とは因に返せば、罪とは悪であり福とは善のことで、ようするに仏教で一般的に語られる因果の、善因楽果、悪因苦果のことである。
第十八願には「若不生者 不取正覚」(もし生ぜずは、正覚を取らじ)と、生仏一如の善悪を超えた智慧による救済が告げられている。この娑婆の因果を超えた阿弥陀如来の智慧が慈悲となって救済しつつあることへの疑いを「化巻」で「定散の専心とは、罪福を信ずる心をもつて本願力を願求す、これを自力の専心と名づくるなり。」(*)と云われたのである。なおこの御自釈は真門釈にあるが、定散の専心とあるから第十九願にも通じるのである。

この文証として『無量寿経』では、以下のように罪福を信じて善本を修習するという胎生の因が説かれている経文を引文しておられる。
ただし、「化巻」であるから仏智疑惑を戒めることが主であり一部文言を乃至されて引文しておられる。以下の文字の薄いところが乃至された部分である。
なお、より詳しく知りたい人の為に、末尾に参照用の文章へのリンクをしておいた。

【7】 またのたまはく(大経・下)、
「その胎生のものの処するところの宮殿は、あるいは百由旬、あるいは五百由旬なり。おのおのそのなかにしてもろもろの快楽を受くること忉利天上のごとくにして、またみな自然なり」と。
【43】  そのときに慈氏菩薩(弥勒)、仏にまうしてまうさく、「世尊、なんの因、なんの縁ありてか、かの国の人民、胎生・化生なる」と。
仏、慈氏に告げたまはく、「もし衆生ありて、疑惑の心をもつてもろもろの功徳を修してかの国に生れんと願はん。仏智・不思議智・不可称智・大乗広智・無等無倫最上勝智を了らずして、この諸智において疑惑して信ぜず。
しかるになほ罪福を信じ善本を修習して、その国に生れんと願ふ。このもろもろの衆生、かの宮殿に生れて寿五百歳、つねに仏を見たてまつらず、経法を聞かず、菩薩・声聞の聖衆を見たてまつらず。このゆゑに、かの国土においてこれを胎生といふ。

もし衆生ありて、あきらかに仏智乃至勝智を信じ、もろもろの功徳をなして信心回向すれば、このもろもろの衆生、七宝の華中において自然に化生し、跏趺して坐し、須臾のあひだに身相・光明・智慧・功徳、もろもろの菩薩のごとく具足し成就せん。
【44】  また次に慈氏(弥勒)、他方仏国の諸大菩薩、発心して、無量寿仏を見たてまつり、〔無量寿仏〕およびもろもろの菩薩・声聞の衆を恭敬し供養せんと欲はん。かの菩薩等、命終りて無量寿国に生ずることを得て、七宝の華の中において自然に化生せん。

弥勒、まさに知るべし。かの化生のものは智慧勝れたるがゆゑなり。 その胎生のものはみな智慧なし。

五百歳のなかにおいてつねに仏を見たてまつらず、経法を聞かず、菩薩・もろもろの声聞の衆を見ず、仏を供養するによしなし。菩薩の法式を知らず、功徳を修習することを得ず。まさに知るべし、この人は宿世のとき、智慧あることなくして疑惑せしが致すところなり」と。

【45】  仏、弥勒に告げたまはく、「たとへば、転輪聖王のごとき、別に七宝の宮室(牢獄)ありて種々に荘厳し、床帳を張設し、もろもろの繒旛を懸く、もしもろもろの小王子ありて、罪を王に得れば、すなはちかの宮中(獄)に内れて、繋ぐに金鎖をもつてす、

飲食・衣服・床褥・華香・妓楽を供給せんこと、転輪王のごとくして乏少するところなけん。意においていかん。このもろもろの王子、むしろかの処を楽ふや、いなや」と。
対へてまうさく、「いななり。ただ種々に方便して、もろもろの大力〔ある人〕を求めてみづから免れ出でんことを欲ふ」と。
仏、弥勒に告げたまはく、

「このもろもろの衆生もまたまたかくのごとし。仏智を疑惑せしをもつてのゆゑに、かの〔胎生の〕宮殿に生じん。(て、)

刑罰乃至一念の悪事もあることなし。ただ五百歳のうちにおいて三宝を見たてまつらず、〔諸仏を〕供養してもろもろの善本を修することを得ず。これをもつて苦とす。余の楽ありといへども、なほかの処を楽はず。

もしこの衆生、その本の罪を識りて、深くみづから悔責して、かの処を離れんことを求めん。(ば、)

すなはち意のごとく、無量寿仏の所に往詣して恭敬し供養することを得、またあまねく無量無数の諸余の仏の所に至りて、もろもろの功徳を修することを得ん。

弥勒、まさに知るべし。
それ菩薩ありて疑惑を生ずるものは、大利を失すとす。

上記の『無量寿経』に続いて引文される『無量寿如来会』への引文は→ここにある。

それにしても、御開山はやはり引文によって創作をなさっておられるのではあった。そのような意味では単なる辞書的な意味をもっては『教行証文類』は読めないものだという感を深くした。それでもところどころ領解できるところもあるので読んでいて楽しいものである。もちろん仏智深きがゆえに我が領解を浅しとすることは肝に銘じているのは当然である。

(34)
釈迦・弥陀の慈悲よりぞ
願作仏心はえしめたる
信心の智慧にいりてこそ
仏恩報ずる身とはなれ (*)

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参照へのリンク

→信罪福心
→真仮論の救済論的意義