信知

林遊@なんまんだぶつ Posted in つれづれ, 管窺録
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「聞見」というブログ記事中で、信知という言葉を使ったので、WikiArcに「信知」という語を追加してみた。なお、WikiArc(正式名は浄土真宗聖典電子化計画)に於いて、出典が浄土真宗本願寺であるとの著作権表示のない文章や、出典を明示した著作権表記下の区切り線以下の文章、及びノートに記された文章は各投稿者の見解であり、浄土真宗本願寺の見解ではないことに留意されたし。
また、当ブログでWikiArcの内容に言及している場合は、WikiArcの内容が最新であることにも注意されたい、為念。 →信知

引用開始>>

しん-ち

信じ知ること。

阿弥陀仏の教法(本願)を聞いて、我を救う阿弥陀仏の本願力を信じ、自己の罪障と自力無効を知ること。

『一念多念証文』では善導大師の『往生礼讃』、深信釈(*)の「信知」を引かれて、

如来のちかひを信知すと申すこころなり。
〈信〉といふは金剛心なり、〈知〉といふはしるといふ、煩悩悪業の衆生をみちびきたまふとしるなり。 (一多 P.686)

とある。
『往生礼讃』では、『観経』の深心を「すなはちこれ真実の信心なり」と定義されている。
御開山は、この真実の信心を『一念多念証文』で、「如来のちかひを信知すと申すこころなり」と押さえ、「信〉といふは金剛心なり」とし、信心とは如来の智慧を賜った金剛心であるとされる。そして「〈知〉といふはしるといふ」といい、金剛心を受けた信知である知とは「煩悩悪業の衆生をみちびきたまふとしるなり」といわれている。
これは信知という語を、如来の真実なる智慧を賜った信(法の深信)と、煩悩悪業に纏われていることを知る(機の深信)という形で二種の深信をあらわされているのである。ともあれ信知とは、機法二種の深信の意であり、それが「すなはちこれ真実の信心なり」であった。(なお和語では信を、〈まこと〉とも読むので、信知を、まこと(如来の真実)を知るとも読める。)

蛇足
近年、浄土真宗の信心を、自覚という言葉で表現する僧俗が多い。元来、自覚という言葉は、「自覚・覚他・覚行窮満、これを名づけて仏となす」(*)とあるように、自ら迷いを断って悟りを開くことを意味する仏教語である。しかし、世間で使われている自覚とは、 自分自身の置かれている状態や自分の価値を知るという意味で使われているので、他力の信心の表現として濫用すべきではない。善導大師が「信知」という言葉を示して下さったのであるから、自覚という言葉より、信知という表現で浄土真宗のご信心を語るべきであろう。 以下のご和讃の信知を、自覚と読み変えてみれば、その違和感が判るであろう。

(32)
本願円頓一乗は
逆悪摂すと信知して
煩悩・菩提体無二と
すみやかにとくさとらしむ (曇鸞讃)

(73)
煩悩具足と信知して
本願力に乗ずれば
すなはち穢身すてはてて
法性常楽証せしむ (善導讃)

>>引用終了

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信疑決判と他力自力対判

林遊@なんまんだぶつ Posted in つれづれ, 管窺録
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聞見という言葉は「行文類」にもあるのだが、面白い材料(ネタ)があったので暇つぶしに考察してみた。 →「ノート:聞見…殊勝と名づく」

現在の『大正蔵経』の『十住毘婆沙論』では、

信力増上者。信名有所聞見 必受無疑。増上名殊勝(*)

と、なっている。この場合は、

信力増上とは、信は聞見するところあるに名づく。かならず受けて疑ひ無し。殊勝を増上と名づく。

と訓ずるのであろう。御開山の所覧本には、

信力増上者何名有所聞見必受無疑。増上名殊勝

と、信が何になっていたので、

信力増上はいかん。聞見するところありてかならず受けて疑なければ増上と名づく、殊勝と名づく。(*)

と、訓じられ、聞見するところを受けて疑いの無いことを、増上であり殊勝とされたのであろう。つまり、受けて疑いの無い「無有疑心」を、信心の意とされたのである。阿弥陀如来より賜る信心であるから、増上であり殊勝なのである。

このような読み方は、法然聖人の信疑決判釈、

当知 生死之家以疑為所止 涅槃之城以信為能入

まさに知るべし、生死の家には疑をもつて所止となし、涅槃の城には信をもつて能入となす。(*)

と、本来は信の反対は不信なのであるが、「信」の反対語を「疑」であるとされた示唆によるものであろう。信とは阿弥陀如来から賜るものであり、それを疑いの蓋で遮蔽していることが自力であるとし、法然聖人の信疑決判を、他力(本願力)と自力の対判によって浄土真宗の本願力回向の宗義を明かそうとされたのである。

ともあれ、お聖教をあれこれ拝読することは楽しいことである。もったいないこっちゃな。

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