老人六歌仙

林遊@なんまんだぶつ Posted in つれづれ
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林遊の好きな禅僧の一人に仙厓和尚がいる。
浄土真宗のご法義が解らなくて、石見の国からはるばる博多の仙厓和尚を尋ねた坊さんに、

貴様、南無阿弥陀仏の他に何の不足があってここにやって来たかッ!!

と、怒鳴りつけて引っ込んでしまったというエピソードがあるが、ようこそようこそである。その和尚に「老人六歌仙」という洒脱な句がある。加齢という現象は、生・老・病・死という苦なる無常であるのだが、死の彼方に、輝くような無量光明土という世界を信知するからこそ老いを拈弄(ねんろう)し諧謔(かいぎゃく)することも出来るのであろう。

「老人六歌仙」

しわがよる、ほくろができる、腰まがる、頭ははげる、ひげ白くなる。
手は振れる、足はよろつく、歯は抜ける、耳は聞こえず、目はうとくなる。
身に添うは、頭巾、襟巻、杖、眼鏡、たんぽ、温石、しびん、孫の手。
聞きたがる、死にとむながる、寂しがる、心はまがる、欲ふかくなる。
くどくなる、気短になる、ぐちになる、出しゃばりたがる、世話やきたがる。
またしても、同じはなしに子を誉める、達者自慢に人は嫌がる。

なんまんだぶのご法義は、若いときに聞いておきなさいよ、というご法義である。
年老いた己を時間軸の上に見出す「老人六歌仙」の世界を信知するとき、愚痴にまみれながらも、なんまんだぶを称える豊かな老いを楽しめるのであろう。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

仙厓和尚「老人六歌仙」
http://www.idemitsu.co.jp/museum/collection/introduction/sengai/sengai06.html

やさしい 安心論題の話

林遊@なんまんだぶつ Posted in つれづれ, 管窺録
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WikiArcに灘本和上の『やさしい 安心論題の話』がUPしてある。
このテキストは、今はもう西方仏国の住人である、ネット上の知人の近藤智史さんが入力してくれたものだが、やさしいの語とうらはらに全然やさしくない。
昔、何を間違ったかこのご法義をより深く学ばせてもらおうと『真宗の教義と安心』という薄い書籍を購入したのだがサッパリ判らん。そもそも『教行証文類』も披いたことが無かったので判るはずがない(笑

本願を信じ念仏を申せば仏に成る、という御法義は、信じさせ称えさせ必ず往生させて仏陀の悟りを得させようという「如来よりたまはりたる信心なり」であるから信心が違うということはない。ただ、その回向された賜りたる御信心を、領納する心の据わり(安心)が異なることを案じて論ずるのが安心論題という論義であろう。
出拠の引用が多く、あちこちお聖教を披きまわる必要のある「安心論題」だが、さいわいWikiでは文字間や項目にリンクを張れるので立体的に浄土真宗の綱格を信知するには便利だ。そんなわけで少しく誤字の校正とか聖典へのリンク付けを楽しんでいる。リンク先の文を読むことに嵌って作業は遅々として進まないのだが、それはそれで楽しいものである。

各論題は、それぞれの持つテーマに従って考察しているので、論題の論じる主題だけにとらわれると全体像が見えなくなることもあるだろう。それぞれの論題はあくまで義を指す指であり、御開山が見ておられた世界を垣間見る言葉の補助線であるということに留意しておきたいものである。
ともあれ、本願を信じ、なんまんだぶを称えて、仏陀と同じ悟りを得るというシンプルなご法義の基底には2500年に及ぶ仏教の生と死を超えて来た歴史がある。より正確にいえば釈尊を釈尊たらしめた阿弥陀如来の本願の歴史である。
それはまた、本願に選択された、なんまんだぶを称えて生死を超える「往生極楽のみち」を示しかつ目指した、幾百万幾千万幾億の林遊の先輩方の生の歴史でもあった。ありがたいことである。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ
→やさしい安心論題の話