幕末~明治時代の学僧であった七里恒順和上は福沢諭吉と昵懇であった。
福沢諭吉が真宗門徒であったからであろうが和上と諭吉氏に以下のエピソードがある。以下、「七里恒順法話集」から引用してみる。
和上は福沢諭吉氏とは、豊前在学の際は、たがいに俊才のほまれをとりつつも、ひじょうに懇意であった。
当時、豊前の風習として、名前を全部呼ばないことが多かった。和上を恒(ごう)や、恒やと呼べば、諭吉氏を諭(ゆ)かい、諭かいと呼んでいた。
あるとき福沢氏がいった。
コリャ恒や、どうも分からぬことがある。真宗の寺院で、参詣者たちが念仏しておるあの有様についてである。あれをみておると、殆ど個々別々に、なんら統一ができておらぬではないか。
一方で、ナムアミダブツと称えておるかと思えば、一方ではナマイダアと半分ぐらいで称えてすますものもある。
婦人などは、いかにも、きえ込むような細い声で称えるかと思えば、壮年は寺をひっくりかえすような声で称える。このような乱雑きわまる状態のまま放置しないで、真宗の信者は、一様に、ナムアミダブツ、ナムアミダブツと、名号全体をを称えるように定め、秩序をつけてはどうか。
これに対して和上はいわれた。
それは、いままでの通りで結構である。別にかえることはいらぬ。早い話が、君の名を呼ぶにも殆ど十人十色、各自別々ではないか。
有る人は、福沢さんといい、ある人は、福沢諭吉という。
おたがいの間のように、親密であれば、ただ、諭かい、諭かいですます。そう呼んでも、呼ばれた君の手許では、さらにかわることはあるまい。
いま如来さまのみ名を称えるのは、十人十色、個々別々であっても、うけるお手許には変わりはない。思想の全分を曝露して、個々別々に称えるのがありがたいのじゃ。
如来から賜った念仏であるから、どのように称えても、それは本願の行である。
なんまんだぶ たまに、いまめがはしく帰命尽十方無碍光如来