幼い頃から、お仏壇の前で家族でお勤めをする環境で育った。 そして、御開山という方の話や阿弥陀さまという仏さまの話を聞きながら育ったせいか、お仏壇の正面の掛け軸に描かれた阿弥陀さまという仏さま(越前では正面は阿弥陀如来の絵像で、両脇掛は帰命尽十方無碍光如来の十字名号と南無不可思議光如来の九字名号である)は、わたくしの方へ来る仏さまだと思っていたも のである。阿弥陀さまを、親さまと呼び親しんだ年寄りや両親の言葉に、親をも超えた「親さま」という存在は常に現在のわたしを包む存在のように意識してい たのだと思ふ。その意味では、灯明の油煙で幾分金ぴかは煤けてはいる仏壇だけれども、その中におられる阿弥陀さまは、わたくしへわたくしへと向かって下さ る仏さまだと思っていたものである。
もちろん思春期を迎え反抗期に入れば、お仏壇は愚かな年寄りの迷信の産んだ産物であり、なんまんだぶというわ けの判らない呪文を称える輩は人生の敗残者としか見えなかったものであった。それはそれとして、何がどう間違ったのか、この林遊が、なんまんだぶをとなえる 身になった。幼少に耳にし経験した向こうから来るという概念は、過去から未来へという時間の流れという時間軸ではなく、未来が現在へ将来するという「弥陀 如来は如より来生」する、如─来であった。そしてそれは、まさに来る「将来する浄土」であり、浄土からわたしの口に届きつつある如─来する名号であった。 なんまんだぶを称えるという行為は、世界が世開として浄土が音をたててバリバリと開いて現在に将来するすることでもあろう。
未来と将来は同義語であるが、未だ来たらずという未来への願望ではなく、いままさに 現在のわたくしに、なんまんだぶと声になって将来してくださるのが現在する如来であり浄土であった。(もちろん現前といっても神秘的な意味でも凡夫の妄想する体験でもなく、御開山のお示し下さったご法義の上での論理的必然としての意である)。言葉を超えた世界から、言葉として口に称えられ耳に聞こえる大悲の顕現としてのなんまんだぶは、如来であり浄土であった。
ともかく、「将来する浄土」と いう表現の考察が面白いので『親鸞と現代』という著書のさわりをUPしておく。少しく西欧哲学思想の描くキリスト教くさい哲学の視点もあると思うのだが、御開山 親鸞聖人のみておられた「大悲往還の回向」の往相と還相の描く世界を知る手がかりとして、この「将来する浄土」という観点は面白い思ふ。
なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ
リンク:将来する浄土─親鸞と現代より
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