順彼仏願故

林遊@なんまんだぶつ Posted in つれづれ
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梯實圓和上の『法然教学の研究』から、法然聖人の回心に関する部分を抜書きしてUP。親鸞聖人が『歎異抄』で「親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひと(法然)の仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり 」とされておられるように、浄土真宗は、本願を信じ念仏を申すご法義である。
親鸞聖人は、この法然聖人の念仏の仰せを、『教行証文類』として著された。これは『教行証文類』の後序p.474に、

ひそかにおもんみれば、聖道の諸教は行証久しく廃れ、浄土の真宗は証道いま盛んなり。

と、教えは残っているが、行も証もすたれて、すでに覚(証)りを得ることの出来なくなった聖道門仏教に対して「教行証」の三法で対抗するという意味もあった。同時に法然聖人が明かしてくださった「選択本願念仏」という行法を信心の智慧によって理論化し、外なる聖道門に対しては阿弥陀如来の本願力回向の大行である念仏をもって対し、内には浄土門異流に、仏心であるような他力の菩提心である智慧の信心を示して対抗されたのである。そして、その行信こそが大乗仏教の至極であるとされたのである。誓願一仏乗である。
ちなみに行は法である。なんまんだぶを称えるということは、阿弥陀如来の大悲の願船に乗ることを示す行法である。それは聖道の、八正道、六波羅蜜、円頓止観、三密加持などという行と次元を異にした教法であった。五劫兆載永劫に修行し思惟摂取して下さった行法が、なんまんだぶを称えるという易行にして大行である。
それゆえ、親鸞聖人は「教行証」の大行である念仏から信を特別に開いて「教行信証」(教えと行いと信《まこと》と証《あかし》)の四法で、法然聖人の、「ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらす」ご法義を明らかにされたのであった。
親鸞聖人を理解するためには法然聖人を学ぶことが重要であるといわれるが、まさに法然聖人の示された「選択本願念仏」の教法を、行と信によって示して下さったのが親鸞聖人である。
法然聖人の示して下さった念仏の行のバックアップなき信は無く、また親鸞聖人の明かされた信の基底である行のない信も無いのである。これが「つつしんで往相の回向を案ずるに、大行あり、大信あり」(行巻 大行釈p.141)であった。行も信も、阿弥陀如来から回向されるから、大行、大信なのであった。これが苦悩の衆生を救われるべき者である他とする、他を利益するから利他力というのである。他力という言葉は誤解されやすい言葉であるが、他力の《他》は、阿弥陀如来に、救うべき対象として見出された他である私を指し示す言葉であった。他力の他は私であったのである。
ともあれ、誠実な清僧として、真摯に生死を超える道を求められた法然聖人の回心を通して、仏道における修行というものを微塵も考察することのなかった浄土真宗の僧俗に、戒・定・慧というものを想起させる文章ではある。
なお、和上が引用で略されている『徹選択集』の文はノート(トーク)に記しておいたので暇人は参照されたし。

法然教学の研究から

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如来大悲の恩徳は

林遊@なんまんだぶつ Posted in つれづれ
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如来大悲の恩徳は
身を粉にしても報ずべし
師主知識の恩徳も
ほねをくだきても謝すべし

真宗門徒であれば法話や仏事のときに、となえ聞いたことがあろう「恩徳讃」である。大谷派と本願寺派ではそれぞれメロディーがちがう。本願寺派の「恩徳讃」はアップテンポで明るく、大谷派のメロディーは荘厳だが暗いような気がする。

さて、この「恩徳讃」の文は、御開山の和讃から採られている。
そして、和讃の原型となった文は『尊号真像銘文』中の、法然聖人御往生の六七日に修した仏事での聖覚法印の「表白文」からとされる。
ところが、この和讃の元である「粉骨可報之 摧身可謝之」の文の原文を御開山が略していなさるので、どうもしっくりこない。
と、いうわけで聖覚法印の「表白文」を『浄土真宗聖典全書』を参考にしてWikiArcに資料として追加してみた。
もちろん御開山の文は御開山のところで領解すればいいのだが、ともあれ原典がはっきりしたので、これからは「恩徳讃」を歌うたび、「表白文」をイメージできるというものだ。なお、新たに追加した漢文は林遊が読下したので乞校正。

→「聖覚法印表白文」

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教行証

林遊@なんまんだぶつ Posted in つれづれ
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浄土真宗には行がないという人がたまにいる。
こういう人には、一日に六万遍なんまんだぶと称えてみなさい、行だということが嫌でも判る、と云ったりする(笑
浄土真宗では信を強調するので行を軽視する傾向があるのだが、御開山が「大行とはすなはち無碍光如来の名を称するなり」といわれたように、なんまんだぶを称えることは行である。
時々お念仏が出ませんという人がいるが、吹き出物や便秘なら出ないということもあろうが、お念仏は我が意で我が口を使ってするものである。その口に称えられ耳に聞こえるなんまんだぶが、阿弥陀如来の本願力によって回向された救いの法である名号なのである。
仏のえによってを修し仏果をする「教行証」が仏教の基本である。
と、いうわけでWikiArcの教行証ノートに以下の文をUPした。(*)

教行証(きょう-ぎょう-しょう) 『仏教学辞典』より。

①教えと行とさとり。教行果ともいう。教とは仏が説いた教え、行とは教に従って衆生がする修行、証とは行によって得られるさとりを意味する(世親の十地経論巻三、智顗の法華玄義五下など)。
②また教は理をあらわすものであるから、あらわす教とあらわされる理を分けていえば、教理行果の四法となる(窺基(きき)の義林章巻六本)。
③親鸞は聖道門(この世でさとりをひらく教え)の教行証に対して浄土門(浄土へ生まれ、そこでさとりをひらく教え)の教行証[1]を示し、行とはさとりの果へ至らせる因[2]であるから衆生が修(おさ)める自力の行ではなく、衆生をして信じさせ称えさせるはたらきとしての名号そのものであり、衆生はその大行を信じさせられる一念に往生が定まるから信が往生の因[3]であるとして、行を分けて行と信の二とし[4]、教行信証の四法を立てる(教行信証)。

脚注
1 親鸞聖人は題号を『顕浄土真実教行証文類』とされ、三法立ての教・行・証の名目で呼ばれたから略称は「教行証」とするのが正しい。ただし内容は教・行・信・証の四法立てになっているので「教行信証」と呼称しても間違いではないのだが、信の名目に幻惑されて、希有の行である念仏を軽視するおそれもある。南無阿弥陀仏を称える、衆生救済の大行である回向された名号法は、阿弥陀如来の「大悲の願(第十七願)より出でた」(p.141)「誓願一仏乗」(行巻p.195)の法であり、あらゆる衆生をさとりへ運載する「大悲の願船」(行巻p.189)なのである。
2 果報を生ずる因となる行為(口業)であるから業因ともいう。業とは造作の義で行為、所作、意思による身・口・意の活動を意味し、浄土真宗では口業の念仏を往生成仏の業因とする。阿弥陀如来が選択された本願の名号は、正しく往生の決定する行業である。(本願名号正定業)
3 本願に誓われた大行である称名の業因を衆生が受け容れるのが信心であるから信心正因という。時間を超えた永遠の救いの法である名号が、有限な存在である衆生に受け取られた時を信楽開発というのである。「一念とはこれ信楽開発の時剋の極促を顕し、広大難思の慶心を彰すなり」(信末p.250)とされる所以である。
4 阿弥陀如来の救済法である名号を称える行に納められた、行中摂信の行から信を別に開いたので信別開という。ゆえに「信巻」には別序があるのであり、信の根拠を示す出体釈はない。体をいうならば「この至心はすなはちこれ至徳の尊号をその体とせるなり」(行巻p.232)とあるように「行巻」であらわされた名号が体である。「真実信心必具名号(真実の信心はかならず名号を具す」)(信本p.245)である。真実の信の対象は阿弥陀如来の全徳施名の名体不二の名号だからである。ゆえに衆生の手元では行を離れた信はなく、信を離れた行もないのでこれを行信不離というのであった。

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