いわゆる日本教という視点

林遊@なんまんだぶつ Posted in つれづれ
0

『ヨハネ福音書』の冒頭に、「初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。」とある。言とはロゴスという意味だそうだ。身心(アジア風)または心身(欧米風)という人間の捉え方があるが、仏教では身・口・意という三つによって人間を把握する。身と心の他に口業(言葉)を重視するのが仏教の特徴でもある。そして、口によって語られる言葉を重視しながらも、なおその言葉によって言葉によって形成された概念からの呪縛を離れることをいうのが大乗仏教の思想である。

『歎異抄』の著者は、御開山から聞いたこととして、

煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもつてそらごとたはごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします。

と、いう。事(こと)とは言(こと)であり、そらごととは空言(そらごと)、虚言であり、まこととは真言(まこと)、信(まこと)、であり誠である。龍樹菩薩は言葉と言葉による概念化(ロゴス)を否定する「戯論寂滅」ということを示して下さった。いわゆる、縁起、無自性、空の思想である。
とまれ、FBで浄土真宗の本尊というタームがあったのだが、偶像について考察した古い記憶を想起して、本棚から山本七平氏の描く比較文化論の「日本人とユダヤ人」という本から記憶に残る一節をUPしてみる。

宣教師さん、日本教創世記、日本教イザヤ書はしばらく措き、日本教にはどんな一面があるか、ある事件を通じてお話しつつ、日本教『ヨハネ福音書』に進もう。
昔、あなたのようにはるばる日本に来た一人の宣教師がいた。彼がある日、銅製の仏像の前で一心に合掌している一老人を見た。そこで宣教師は言った「金や銅で作ったものの中に神はいない」と。老人が何と言ったと思う。あなたには想像もつくまい。彼は驚いたように目を丸くしていった「もちろん居ない」と。今度は宣教師が驚いてたずねた。「では、あなたはなぜ、この銅の仏像の前で合掌していたのか」と。老人は彼を見すえていった。「塵を払って仏を見る、如何」と。失礼だが、あなただったらこれに何と返事をなさる。いやその前に、この言葉をおそらく「塵を払って、長く放置されていた十字架を見上げる、その時の心や、いかに」といった意味に解されるであろう。一応それで良いとしよう。御返事は。さよう、すぐには返事はできまい。その時の宣教師もそうであった。
するとその老人はひとり言のように言った「仏もまた塵」と。そして去って行った。この宣教師はあっけにとられていたというが、あなたも同じだろうと思う。これを禅問答と名づけようと名づけまいと御随意だが、あなたの言った言葉は日本教徒には全く通じないし、日本教徒の返事はあなたに全くわからないということは理解できよう。禅の公案には何を素材に使っても良いのである。仏典でも、金銅仏でも、猫の首でも、いわしの頭でもよい。もちろん、聖書でもよいのだということを忘れないように。
日本人が、聖句を用いて盛んに禅問答をしても、驚いてはならない。そういう人たちは、日本教徒キリスト派といって、聖書の言葉で禅問答をやるのにたけている人びとであるから。
川端康成氏がハワイの大学で言ったことをお忘れなく。日本では「以心伝心」で「真理は言外」であるのだから。従って、「はじめに言外あり、言外は言葉と共にあり、言葉は言外なりき」であり、これが日本教『ヨハネ福音書』の冒頭なのである。くれぐれも忘れないでほしい。あなたの生きて来た世界がユークリッドの世界だと仮定したら、日本教の世界は非ユークリッドの世界である。ユークリッドの定理を非ユークリッドの世界にあてはめて、世にも奇妙な証明をやってみたところで、それは、非ユークリッドの世界に住む人間にとっては、ただただこっけいで無意味なだけだということは、前に引用した漱石の「屁」の勘定のところを、あなたに批評させたらすぐにわかることだ。批評してごらん、日本人はその批評を聞いてあなたを的確に量る。そしてそれでおしまいなのだ。

いわゆる日本の文化人という知識層は、自己の依って立つアイディンティティというものに対して無関心だ。いろいろ批判はあるが、イザヤベンダサンという、日本のいわゆる知識人の根底にある概念の宿便に注目を向けさせた、山本七平氏の「日本教」という切り込み面白かった。お聖教をも読まないあほな真宗坊主が、いわゆる社会という翻訳語の概念にあたふたしているのも、自己と自己を支えてきた文化に対する考察の不足であろう。
真宗開教区の職員が、なぜ、お仏飯はバターを塗ったトーストではいけないかを述懐していた記事を読んだことがある。
まさに前掲書にいう「お米が羊・神が四足」という東・西の宗教に対する思想の違いを彷彿させたタームであった。そして、何故日本人が、アメリカによる《米》開放とか、TPPに於ける《米》の自由化というものに抵抗するのであるかという、民族としてのアイディンティティの衝突を忘れているのが現代の日本人であり真宗坊主である。
日本の国の別名である「豊葦原の瑞穂の国」であるから、お仏飯は米でありえたのであるが、頭の悪そうな歴史を学ぶことのない真宗坊主は、ハラル(イスラム法に沿った)によって処された羊の頭をお仏壇に供える事態も想定しなければいかんな(笑

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ