浄土真宗では《法》である阿弥陀如来を人格化して語ることが多い。昔の門徒は阿弥陀如来を、「おやさま」と呼び、自らの日々の喜びや悲しみを吐露し報告して相談していたものである。
伊藤左千夫に、
さびしさの 極みに立ちて 天地(あめつち)に 寄する命を つくづくと思ふ
と、いう句があるそうだが、自縛という孤独の蚕繭をノックするのは、なんまんだぶという言葉であった。
と、いうわけでネタがないのでSNSの過去の日記からUP。なお、ののさんとは、自己を超えた自己を包摂する存在を示す言葉であり、浄土真宗では阿弥陀如来を指し示す幼児語である。
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〇〇さんの日記の、ののさんというキーワードで思い出した法話がある。
林遊の子供の頃は母の日に、学校で母へプレゼントする赤いカーネーションの造花を作ったものだ。
母親のいない子は白いカーネーションだったが、今と違って
子供達は各家庭の状況をよく知っていたので、さほど不思議には思わなかった。
そんな時代の事であろう法話。
両親を交通事故で亡くして、おじいちゃんとおばあちゃんに育てられている幼稚園児がいた。
この子が幼稚園で母の日用に、お母さんの絵を描いた。
うまく描けたので、急いで家に帰って大好きなおばあちゃんに、お母さんを描いた絵を見てもらった。
その絵を見たおばあちゃんは、とつぜん涙でくしゃくしゃの顔をして孫を抱きしめた。
その絵には、なんと金ぴかのお母さんが描かれていた。
わたしのお母さんはどこへ行ったの、と、むずかる孫に聞かれるたびに、
お前のお母さんは、この、ののさんだよと仏壇の前で孫に言いながら育ててきたのだろう。
一茶も幼くして母を亡くしたからだろうか、次のような句を詠んでいる。
ととさんや あの ののさんが かかさんか (小林一茶)
ぽつんとひとり取り残されたようなさみしさや、こころが空回りする想いに囚われたときも、
>私の隣にいらっしゃる、
>ののさん今日もありがとう。
最後の二句は〇〇さんの許可を得て日記から転載しました。
<<引用終
なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ