画像は、山も山 (id:yamamoya)さんのブログ「親鸞会を脱会した人(したい人)へ」(*)からのものである。
画像中の「弥蛇の本願まことだするならば」云々の台詞は、以下の『歎異抄』第二条の仮定法で表現された文章の真意を読めないことを露呈している。
宗教書というものは、その文章があらわされた背景や、著者の問題意識に沿って読まないと、とんでもない勘違いをする例であろう。ましてや本願力回向という行信を説く浄土真宗のご法義を、自覚や確信という言葉で表現されるものとして捉えるならば錯々と言わざるを得ないのである。
ともあれ、『歎異抄』第二条は、関東の門弟が東海道を選んだならば、下総、武蔵、相模、伊豆、駿河、遠江、三河、尾張、伊勢、近江、山城の十余ヶ国を越えて、御開山に往生浄土の念仏のご法義を命懸けで問い来たことあらわす文章である。このような門弟に対して、何故、ご開山が仮定法で表現しなければならなかったかということについては、当ブログの「歎異抄の仮定法」(*)でも述べた。
しかし、書物の文の行間を読めず、直接的例示の文章しか読めない輩のために以下の『歎異抄』(梯實圓 著)の一文を抜粋してUPしておく。
■専修念仏の源流と伝統。
ところで、親鸞聖入が真宗の伝統を語られるとき、「正信偈」や『高僧和讃』のように、七高僧を列挙される場合と、法然聖人のみを挙げられるときと、善導・法然の二師を挙げられる場合とがありますが、いまここには釈迦・弥陀の二尊と、善導・法然の二師を挙げて一行専修の念仏の源流と、その伝統を示されています。
弥陀の本願まことにおはしまさば、釈尊の説教虚言なるべからず。仏説まことにおはしまさば、善導の御釈虚言したまふべからず。善導の御釈まことならば、法然の仰せそらごとならんや。法然の仰せまことならば、親鸞が申すむね、またもつてむなしかるべからず候ふか。詮ずるところ、愚身の信心におきてはかくのごとし。このうへは、念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々の御はからひなり。
と結ばれたものがそれです。
はじめに、「弥陀の本願」と「釈尊の説教」とを挙げられたのは、阿弥陀仏の本願の救いは、釈尊の説教によってのみ、私どもに伝達されるということを知らせると同時に、その釈尊の教説も、阿弥陀仏の本願海を源流として、そこから流れ出てきたものであることを明らかにされたものです。
『大無量寿経』によれば、阿弥陀仏は、四十八願のなかの第十七番目(第十七願)に、十方の世界のあらゆる衆生にその救いを知らせるために、十方世界の仏陀たちに阿弥陀仏のみ名のいわれを讃嘆させようと誓われています。十方の世界にましますあらゆる仏陀たちは、その誓いに応じて、阿弥陀仏のみ名にこめられている万人救済の不可思議の本願力をほめたたえておられるわけですが、その具体的なあらわれが、諸仏の一人である釈尊が説かれているこの『大経』であると、経典自身が語っているのです。
次に、「善導の御釈」と「法然の仰せ」という二師の相承を挙げられたのは、法然聖人が、自身の念仏の信のよりどころを語られるとき、つねに「ひとへに善導一師による」(『選択集』=『原典版聖典七祖篇』一四三○頁)といわれていたのをうけられたものです。すなわち、善導大師が、称名一行が正定業(正しく往生の定まる行)であると仰せられた釈義をうけて、法然聖人は、「浄土三部経」は、選択本願の念仏のいわれを説かれた経典であると受けとっていかれたわけです。そこで善導・法然の二祖を挙げることによって、「ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべし」という教えの伝統を明らかにされたのです。
こうして阿弥陀仏の本願海から流れ出て、釈尊の教説となって煩悩業苦の大地をうるおし、善導大師の御釈となって中国の民衆を救っていった本願念仏の法流は、さらに法然聖人によって確認され、いま親鸞もその清らかな流れを汲んでいるのだという信仰上の事実を述べられたわけです。
■決断の外に道はない
しかし、このことをいうのに「まことにおはしまさば」という仮定の言葉をつらねておられる点に、奇異な感じをうけます。そこには、反語的に意味を強めるようなひびきも感じられますが、何よりも「親鸞が申すむね、またもつてむなしかるべからず候ふか」という謙虚な領解の言葉を述べるためだったと思います。
ふつう絶対真実の法の伝統を語った後は、「法然の仰せまことなるがゆえに、親鸞が申すことも決していつわりではない」と断言するでしょう。そして「親鸞の信心はかくのごとし、このうえは、面々、念仏をとりて信じたてまつるべし」と結ぶでしょう。そうなれば、教法の権威をかりて、門弟に信を強制する高圧的な「人師」のイメージが強くなり、「弟子一人ももたず候ふ」(『註釈版聖典』八三五頁)といいつづけられた聖人とは、ちがった人格になってしまいます。
聖人は、「法」の名によって「私」を主張することをきびしく自誡されています。自分がいただいている教法が貴いということは、自分が貴いことでは決してありません。むしろ、教法の貴さがわかればわかるほど、自身の愚かさが思い知らされていくはずです。仏祖の名を利用して、名利をむさぼったり、「よき師」の名をかりて、自己を権威づけようとすることほど醜いものはありません。
こうして聖人は「愚身の信心におきてはかくのごとし」と述べ、「このうへは、念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々の御はからひなり」とおことばを結ばれています。率直に自身の信心を表明された聖人は、門弟たちの一人ひとりが如来のまえにたって、仰せにしたがうか、したがわぬかを決断する以外に道のない、仏法の世界の厳しさを知らしめられていたといえましょう。
本物の善知識とは、黙って俺について来いを強調する者ではなく、何を願うべきか、何をよろこび何を悲しむかを教えてくれるのである。生と死をはっきりと見極めれらない己であったということに気付いたとき、そのような私を包んでいて下さった、「我弥陀 以名接物。是以耳聞口誦 無辺聖徳攬入識心。(わが弥陀は名をもつて物を接したまふ。ここをもつて、耳に聞き口に誦するに、無辺の聖徳、識心に攬入す)」と、いう、覚りの世界である浄土から届いている、なんまんだぶという言葉の響きが聞こえるのであろう。
大東亜戦争敗戦後の、あらゆる規範が崩壊したアノミーの時代に、「信心」というタームに自らの存在理由を求めて苦悩した歴史が日本の新興宗教であった。件の自称特攻くずれの、富山の田舎寺の次男坊を駆り立てたエネルギーも「信心正因」という、悪しく領解された術語であったろうと思ふ。若いときに人生とは何ぞやを考えない者は情熱が無く、三十~四十過ぎても正義と真実の区別がつかないのは莫迦である。御開山親鸞聖人は、真実とは自らに無いということを真実の証明とされた。「行巻」で、『浄土論』の〈我依修多羅 真実功徳相 説願偈総持 与仏教相応〉を引いて、真実とは何かを考察する曇鸞大師の『論註』を「行巻」で引文(*)されておられることからも判る。
そもそも、浄土真宗のご法義の信心とは、自己の妄想が拵えた世界や、その自らが描き出した虚妄な世間の外から、なんまんだぶと聞こえる、言葉を越えた声に自己の思い(信心)を解放するご法義である。そのような意味で、第十八願の至心信楽の願を開いて、「信巻」の真仏弟子釈に、第三十三願 触光柔軟の願(*)を示して下さったのであろう。柔軟とは、ようするに、こだわらない生き方である。あちこちへぶつかって傷つくのは自らが剛であるからである。剛とはまた正義であり、行動の原理であろう。しかして、我が浄土真宗は、行動の原理ではなく、日々の煩悩の生活の上に立脚するご法義であった。
それが、御開山が法然聖人から受け賜わった、
またいはく、聖道門の修行は、智慧をきわめて生死をはなれ、浄土門の修行は、愚痴にかへりて極楽にむまると 云云 (*)
の、ご法義であった。
なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ