唯信仏語
浄土教は信心の宗教でもあるのだが、浄土真宗では初っ端から「二種深信」を論ずるので途惑う者も多い。そもそも御開山は『教行証文類』の「信巻」に於いて『観経疏』の深信釈を長々と引文されておられるが、具体的に二種深信という言葉によって信心を考察されたところは無い。法然聖人には「二種の信心」という用語例はあるが、二種深信という言葉で浄土真宗の信心の意味を考察されたのは、存覚上人の『六要鈔』が嚆矢である。
もっとも、御開山は機無・円成・回施・成一というかたちで『無量寿経』の至心・信楽・欲生の三信を釈しておられるので、機無を機の深信とし円成・回施・成一を法の深信と見る見方もできるであろう。
浄土真宗のご法義は、浄土教の必然として突き詰めれば二種深信に納まるとも言えるのだが、初っ端からこれを出されると間違いやすい。二種深信とは、阿弥陀如来の回向する衆生を済度する《法》と、その法の対象である《機》との関係を表す教説である。ちなみにここでいう《機》とは、《法》の対象であることを示す言葉であって、《法》を抜きに単独の《機》なるものを論じているのではない。(*) その法と機の関係を、善導大師が、『観経』の三心の一である「深心」を開いて、救済する《法》と救済される《機》の関係を示されたものが浄土真宗でいうところの二種深信という言葉である。開いたのであるから二種一具である。
さて、面白いことに御開山は二種深信ではなく、『二巻鈔』で『観経疏』の深心釈を七つに分けて考察されておられる。これは『観経疏』の深心釈で、善導大師は「亦有二種」として二種深信を釈されるのだが、これにひき続き「又」という言葉を使って深心を七つに分けて考察されていることによるのであろう。
さて、ここまで引っ張ってきたのだが、タイトルの「唯信仏語」である。いわゆる御開山が『二巻鈔』(愚禿鈔)で考察されている七深信中の第五深信である。この第五の「唯信仏語」の左傍に「利他信心」と註記されておられる。
【54】
第五の「唯信仏語」について、三遣・三随順・三是名あり。
三遣とは、
一には、「仏の捨て遣めたまふをば、すなはち捨つ」と。
二には、「仏の行ぜ遣めたまふをば、すなはち行ず」と。
三には、「仏の去ら遣めたまふ処をば、すなはち去る」となり。
三随順とは、
一には、「是を仏教に随順すと名づく」と。
二には、「仏意に随順す」と。
三には、「是を仏願に随順すと名づく」となり。
三是名とは、
一には、「是を真仏弟子と名づく」となり。
上の是名とこれと合して三是名なり。
以上の『二巻鈔』で示される御開山のお心を窺うに、深信釈とは、雑行を捨て、なんまんだぶを行じ、なんまんだぶを称えずに、信心獲得とか信心決定という妄想の自己のこしらえた信心を捨てて、随順仏教、随順仏意、随順仏願の、なんまんだぶを称える者こそが、「唯信仏語」の念仏の行者である。法然聖人は『観経』の三心の中で深心こそが仏意を顕わしているとされた。それは善導大師の深心釈に於いて、「一心専念弥陀名号 行住坐臥不問時節久近 念念不捨者 是名正定之業 順彼仏願故」と、なんまんだぶを称える《行》が示されているからであった。
要するに、浄土真宗とは、なんまんだぶを称えた者を済度するという第十八願の「本願を信じ念仏を申さば仏に成る」ご法義であって、これが「唯信仏語」ということである。
それにしても「信心正因 称名報恩」という覚如上人の創作教義は、一分御開山の意を汲んでいるのだが、法然聖人と、親鸞聖人の説かれた日本浄土教の体系からは、少しくズレているのかもと思っていたりする。(どうでもいいけど)
なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ