自然ということについて

林遊@なんまんだぶつ Posted in つれづれ
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『無量寿経』は、格義仏教時代に翻訳されたそうで、自然という言葉が五十数回出てくる。この自然ということを考えていて、ふと、古いSNSでの日記を思い出し少しく編集しなおしてみた。かなり古い記憶ではある。

『時間の砂』という1992年代の映画がある。シドニィ・シェルダンの原作で知っている人も多いだろう。
この映画の中で、バスクの独立を目指す若いゲリラの純朴な農夫が、父を殺され復讐の為に人を殺して逃亡する、修道女に扮した女性に語る奇跡について語る言葉に感動した記憶がある。何でもないような種を蒔き収穫するという事象を彼は奇跡と呼ぶのであった。あとで何かの拍子にマルコの福音書「成長する種」からの引用であるという事が判った。

「成長する種」の譬

また言われた、神の国はこのようなものである。
人が地に種をまいて、 夜昼、寝起きしている間に、その種は芽を出して成長していくが、どうしてそうなるのか、その人自身は知らない。
地はおのずから実を結ばせるもので、初めに芽、つぎに穂、つぎに穂の中にゆたかな実ができる。
実がいると、すぐに鎌をいれる。刈り入れの時が来たからである。(マルコ福音書 四章二六~二九節)

自然は克服すべき対象と見るのが砂漠の民のセム族来由の宗教であり、自然と共生する森の宗教が仏教であり、キリスト教と仏教の存立基盤の違いであると思っていた林遊には、ちょっと意外ではあった。もっとも宗教という言葉は、本来は釈尊が説かれたとされる無数の経典の、どの〔教〕えを〔宗〕とするかという仏教語であって、キリスト教という、創造者である絶対神を立てる教義や、常一主率なるアートマンを否定する仏教の教義とは基本的に異質ではある。
この点で、阿弥陀如来一仏を尊崇する浄土教は絶対神をたてるキリスト教と似ているといわれる。もちろん浄土真宗は智慧と慈悲の完成を目指す仏教であって、人格的に表現される慈悲を強調することから誤解される面も多い。
そのような意味では日本にキリスト教が普及しない原因として、人格化された阿弥陀仏の浄土教があるからであるといわれたりするのだが、そのような解釈もあるのであろう。
ともあれ、キリスト教の時間論でいえば、有始有終(始めがあって終わりがある)の時間論であり、因果は巡る糸車というような仏教でいう無始無終(始めも無く終わりも無い)の時間論ではない。「袖すりあうも多生の縁」というような幾多の生を経巡って縁を結ぶという発想はキリスト教にはない。たとえば行基菩薩の、

山鳥のほろほろと鳴く声きけば
ちちかとぞ思ふははかとぞ思ふ

と、詠うような、山鳥の声にあの鳥はもしかして、先立った父ではなかろうか母ではなかろうかといういうような、時間軸を超えた〔いのち〕の連帯を感じる輪廻と縁起の発想はキリスト教にはないのであろう。
先に、仏教では常一主率なるものを認めないと記したが、大乗の『涅槃経』では、涅槃の徳として常楽我浄を説く。一見、常一主率の否定と矛盾しているようであるが、それはまた生死に懊悩していかざるを得ない幾多の衆生の〔いのち〕の帰する処としての浄土の徳であり、「一切衆生悉有仏性 如来常住無有変易」の大乗仏教の目指した旗印でもあった。御開山が「真仏・真土巻」で『涅槃経』を引文して浄土の常楽浄を説かれる所以である。(常楽我浄の我については引文されておられない)

ともあれ、100年死ぬほど考えても死ぬとしか思えない、虚無の暗黒への墜落としか思えない〔いのち〕の存在に、往生という《意味》を与えてくれたのが浄土真宗の、本願を「宗」とし名号を「体」とするご法義であった。生きることに意味があるように、死ぬることにも意味付けをして下さったのが、浄土を真実とするご法義である。生の依って立つ処、死の帰する処ということが、帰依するという意味であると示して下さったことである。

日本浄土教の先達である源信僧都は『往生要集』で菩提心を釈し、

知りぬべし、念仏・修善を業因となし、往生極楽を華報となし、証大菩提を果報となし、利益衆生を本懐となす。
たとへば、世間に木を植うれば華を開き、華によりて菓を結び、菓を得て餐受するがごとし。

と、なんまんだぶを称えることの究極の目的は、あくことなき無始無終の菩薩行を実現する為であると示して下さった。
願作仏心のなんまんだぶの種を播き、芽を出(い)だして実を結び、度衆生と刈り入れの時を迎えることこそが浄土教の目的である。
御開山は、「自然といふは、もとよりしからしむるといふことばなり」と、自然という自ずから然るという漢語を言換えて、本願力の自然のはたらきということを教えて下さった。なんまんだぶは自らが称えているようであるが、それは如来がしからしむことであるとされる。そして浄土真宗の大綱を「教文類」の冒頭で、

つつしんで浄土真宗を案ずるに、二種の回向あり。一つには往相、二つには還相なり。

と、往還ニ回向を示され、その結論ともいえる『教行証文類』の「証文類」末尾では、

還相の利益は利他の正意を顕すなり。

と、浄土真宗のご法義の正意(目的)を示されるのであった。まさに前掲のマルコのいう自然に「刈り入れの時が来たから」であろう。

(20)
浄土の大菩提心は
願作仏心をすすめしむ
すなはち願作仏心を
度衆生心となづけたり

(21)
度衆生心といふことは
弥陀智願の回向なり
回向の信楽うるひとは
大般涅槃をさとるなり

(22)
如来の回向に帰入して
願作仏心をうるひとは
自力の回向をすてはてて
利益有情はきはもなし

「本願を信じ念仏を申せば仏に成る」という非常にシンプルな教説は、林遊をして園林遊戯地門の出門の菩薩行を楽しめるご用意もあったである。急いで死にたくもないが、やがておとずれる死の彼方に、「念仏申すのみぞ、すゑとほりたる大慈悲心」が展開するご用意までもあるご法義は、ほんとにありがたいこっちゃな。

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