算数の幾何は得意だったのだが、微分積分となったらお手上げだった記憶がある。ともあれFBで数学云々というタイムランが上がってきたので、SNSでの古い「一人はみんなのために」という書き込みをUP
チームプレーを重視するラグビーには、One For All、All For Oneということばがあるそうである。一人はみんなのために、みんなは一人のためにという意味である。
英語はサッパリ判らないのだが、「一人はみんなのために、みんなは一人のために」という言葉は『華厳経』来由の言葉だと思っていた。
『華厳経』では、「一即一切 一切即一。一入一切 一切入一」(一は即ち一切であり、一切は即ち一である。一は一切に入り、一切は一に入る)という、重々無尽の関係性(縁起)を説くのだが、インド人のあまりにも広大な象徴表現についていけなくて読むのを断念した(笑
そんな訳で、概説書を読んだのだが、相即相入というか、一即一切についての数による解説は面白かった。
まず、数の基底を一であると定義する。空に拘る人から数の基底はゼロ「空」であるという突っ込みがあるのだろうが、空は空に沈滞している限り空ではない。 空(ゼロ)は~へというというはたらきがあるから空なのである。空が単なる虚無であるなら、それは死んでいる。空は空を超えたところで真実の空の意味が顕かになるのだろう。御開山の仰る「本願力回向」 の世界は、そのような有→無→有の世界を描いて下さるのだ。
>>
竹村牧男著『華厳とは何か』より
さて、その『五教章』の説明ですが、異体門の相入の説明から始まります。向上数と向下数の二門がありますが、向上数は、はじめに一を中心に他の数との関係を見、次に二を中心に他の数との関係を見、そうして最後に十を中心に他の数との関係を見るものです。
向下数はその逆で、はじめに十を中心として他の数との関係を見、次に九を中心として他の数との関係を見、そうして最後に一を中心として他の数との関係を見ていくものです。以下、『五教章』の文章をたどつてみましょう。
中に於て先ず相入を明す。初に向上数に十門あり。
一には、一は是れ本数なり。何を以ての故に。縁成の故に。
乃至十には、一が中の十。何を以ての故に。若し一無ければ即ち十成ぜざるが故に。即ち一に全力有り、故に十を摂するなり。仍(よっ)て十にして一に非ず。
余の九門も亦た是の如く、一一に皆な十有り。準例して知んぬべし。
まずはじめに、一を、一から十の数の中で根本の数と見ます。一が根本となって他の数を成り立たしめると見るのです。一が他の数をつくるということは、一 が一だけにとどまらず、二となったり三となったりしていくということで、自由自在に他と融じていきます。そこを縁成の一といいます。自己の本体を持たな い、無自性の一ということです。だからこそ、他と関係しえて、関係の中で一そのものでありうるわけです。
この一があって、はじめて二もありえます。一に一を足して二ができます。もし、一が一に固定していて他と関係しなければ、一と一とがあってもそれはあくまでも一と一で、二とはならないでしょう。二となるということは、一が一を失って二に融じることです。
そのようにして、一が根本にあるからこそ、二も成立するのですが、ということは、そういう一のゆえに二が成立すること、つまり一が二を成じていること、し たがって一に全力があって、それゆえ二を一の中に摂めてしまうということになります。つまり、二は一に入ってしまうわけです。そのように、一に全力がある からこそ二も成立しますが、ということは一が二を自らに摂め、二は一に入り込んでこそ、二は二として成立するということです。
こうして、一の中に三も入って、そのうえで三であり、一の中に四も入って、そのうえで四であり、ないし十まで、このことがいえます。
一を本数として、その一と他の二ないし十までとの関係をこのように見た次には、今度は二を本数として、その二と他の一あるいは三ないし十までとの関係を同様に考察し、その次には三を本数として、その三と他の一、二あるいは四から十までとの関係を同様に考察します。
どの場合でも、本数がなければ、他(末数)が成立しない、したがって、本数に全力があり、他を摂めている、他は本数に入っている、だからこそ、他は他と して成立している、と見ていくのです。こうして、本数を一から十まで上っていって、その本数と他の数とのこの関係をすべて見ていくのが、向上数です。
ここで、一を本数としたとき、それがあればこそ他の数が成立するということはわかりやすいだろうと思われます。しかし一以外の、他のいずれかの数を本数としたとき、それがあればこそ、その他の数(末数)が成立するということは、ややわかりにくい面があります。
たとえば、五を本数としたときのことを考えてみましょう。このとき、五の中に一が入り込んでいる。なぜなら、五がなければ一は成立しない。だから五に全 力があって、一を摂めているのだ、と見ることになります。では、どうして五がなければ一は成立しないといえるのでしようか。
このわかりにくさは、一が根本であるという私たちの先入観によるものでしょう。特定の視点に縛られなければ、一から十までの十個の数があるとき、そのど れを根本と見てもよいはずです。そこで五を根本として見れば、五から四を引けば一ができるのですから、五が根本となって一が成立する、五がなかったら一も ありえない、と見ることができるのです。
そのように、華厳の世界には、視点の自在な移動・転換があります。関係の中の各々が中心になりうる、という見方があります。そこには、自我中心から世界中心へのものの見方の転換があるでしょう。
こうして、本数を一から十まで上がりつつ、摂めている・入っているという関係を見たあとは、本数を十から始めて順に九、八……と一まで下がりつつ、同様に摂めている・入っているという関係を見ていきます。
ただし、このときの説明は、「謂く、若し十無ければ即ち一成ぜざるが故に、即ち一、全力無うして、十に帰するが故に」という説明になっています。これは 摂める側(本数)でなく、摂められる側(帰する側、入る側、末数)を主としていっているもので、前の説明を裏側から見たものです。
こうして、すべての数に、他のすべての数が入っていて、しかも各々の数として成立していることになります。ここが相入ということです。それぞれの数が他 に入りかつ他を摂めているというところに、自己の本体を持つものでない、縁成のものであるということがあります。それぞれがそのような特質を持っているが ゆえに、関係ということが成立するのであり、関係が成立しているとすれば、関係するものはおよそこのような特質を持っているというのです。
>>
[2011/10/19]