過日「聞見会」の念仏会(ねんぶつえ)に参加してきた。会といっても通常は同行の慈海坊さんと二人しかいないのだが、珍しく参加者がいて三人で、なんまんだぶを堪能してきた。
念仏会といっても、いわゆる『観念法門』にいわれる『般舟三昧経』のような観念仏ではなく、ひたすら口に、なんまんだぶと称える念仏会である。寝そべって称えようが端座合掌して称えようが、五体投地して称えようがかまわない各自が勝手に、口になんまんだぶを称える会である。
合間にご法義の話を挟んでの二時間であるが、世間の目から見れば奇異に見えるだろうと思ふ。
浄土真宗では称名は讃歎行である。大谷派の金子大榮師は、浄土というのは音の世界、音楽の世界ですと示して下さった。はじめて読んだときには意味が分からなかったが、『浄土論註』下で「荘厳妙声功徳成就」を釈して「此是国土名字為仏事(これはこれ国土の名字、仏事をなす)」という句をみて少しく分かったように思えたものだった。
ともあれ一人でつぶやくような、なんまんだぶもあるし、他者と時間を共有して称える讃嘆行としての念仏も、またありがたいものである。
そのような意味でかって読んだ、武内義範著『親鸞と現代』「行為と信仰」から、象徴的行為としての念仏についての文を引用しておく。
上述のごとく『教行信証』の『行巻』の初めでは、行ということは「無碍光如来の名(みな)を称するなり」とされている。すなわち念仏を称えることとして、最初に概念が規定されている。その意味ではあくまで能行としての行を問題にしているが、親鸞はその能行としての行を「諸仏咨嗟の願」、すなわちすべての仏が阿弥陀仏の名号を讃めたたえるという第十七願から出ていると考えている。その場合に第十七願から出ているとして考えられる行の概念は、さきの単なる能行としての念仏の行為というものよりは一層広く一層深い意味に解釈されていて、称名という行為はいわば象徴的な行為となってくるように思われる。
すなわち能行としての行は、そのままそれが象徴的行為として、すべての仏、一切の衆生、一切の世界のありとあらゆるものが仏の名をたたえている、その全体の大きなコーラスの中に流れ入れ込み、融入している。阿弥陀仏の名をたたえることが、大いなる称名の流れのなかに、つまり諸仏称揚、諸仏称讃の願の内容に流れ入っている。そこでは、行の意味は単にひとりの人間の行為ではなくて、その行為自身が実は深い象徴的な根底をもっていることとなる。だからその行為によって、象徴的な世界が開かれて、私自身の称名の行為がその象徴的な世界のなかに映されている、とそういうふうに考えられる。
家の爺さんや婆さんは、「声によるお荘厳」ということを言っていたが、衆生の称名が、諸仏の称名に巻き上げられて「諸仏称名 衆生聞名」と聞こえてくれる世界もあったのであろう。ありがたいこっちゃ。
なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ
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