浄土真宗の生活信条に、
-、み仏の誓いを信じ、尊いみ名をとなえつつ強く明るく生き抜きます。
-、み仏の光をあおぎ 常にわが身をかえりみて感謝のうちに励みます。
-、み仏の教えにしたがい 正しい道を聞きわけてまことのみのりをひろめます。
-、み仏の恵みを喜び 互いにうやまい助けあい社会のために尽くします。
と、あるのだが同行の坊さんと話していて、これ少し変じゃないか?と思った。
『領解文』に「このうへは定めおかせらるる御掟、一期をかぎりまもりまうすべく候ふ」と法度(はっと)が出してあるので、娑婆の生き方は人々(にんにん)各自の出来る程度に適当に過ごしていけということであろう。
そもそも仏教は「生活信条」に示すような生き方を説くのではなく、生死(しょうじ)を超える道である。弘法大師空海は、「生生生生暗生始 死死死死冥死終(生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めに暗く、死に死に死に死んで死の終わりに冥し)」『秘藏寶鑰』(*) とおっしゃったそうだが、これが無明ということであろう。
武内義範氏は、『親鸞と現代』の中で、
四諦は苦集滅道(くじゆう-めつどう)というこの四つの真理で、原始仏教ではそれを知らないということが、この真理に対する無知が、すなわち無明だといわれている。四つの真理のうちでまず苦ということが一番初めに出てきているが、この苦ということの意味が現代人にとっては、その理解が非常にむつかしいものとなってしまっている。というのは、われわれは苦ということの意味を本当に理解しえないような時代に生きているからである。われわれにとっては快楽とか幸福とかということが、われわれの生の自明の目的とか第一の原理になっていて、苦というものの示す真理ということを深くきわめて自省するということはなくなってきている。
と、仏教に於ける「この苦ということの意味が現代人にとっては、その理解が非常にむつかしいものとなってしまっている。」と、いわれている。
たしかに現代社会は科学という技術によって、混沌というものに目や鼻をつける役割を果たしてきたのだが、かえって仏教の持つ根源的な無明というものに対する考察を等閑にしてきたともいえるであろう。
『親鸞と現代』は、西洋哲学の視点から仏教の思想を考察しているのだが、武内義範氏は、浄土真宗の僧侶でもあるので門徒にとって同書は得るところが多いと思ふ。
ともあれ、百年考えても死ぬとしか思えない無明の闇を、死ぬのではなく「必至無量光明土(かならず無量光明土に至る)」という、なんまんだぶと称える浄土真宗のご法義はありがたいこっちゃな。
なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ