御開山は元照律師の『阿弥陀経義疏』等を引文されておられる。
「行巻」で引文する、
いはんやわが弥陀は名をもつて物を接したまふ。ここをもつて、耳に聞き口に誦するに、無辺の聖徳、識心に攬入す。永く仏種となりて頓に億劫の重罪を除き、無上菩提を獲証す。(p180)
の文は、可聞可称の法として、なんまんだぶを述べておられるのがありがたい。
元照律師は、死後の安楽を願わず、何度も苦の娑婆へ生まれ変わって衆生を救済したいとの願いをもっており、当初は浄土教を見下していた。
しかし、自分が病に倒れてから分段生死でしかない己の現実に気付いて浄土教に帰したそうである。
それには、伝智顗撰(伝とは智顗撰として伝えられているという意で真撰ではないということ)とされる『淨土十疑論』が大きい影響を及ぼしたそうである。
源信僧都も『淨土十疑論』を引き、
つぶさに『十疑』のごとし。 知りぬべし、念仏・修善を業因となし、往生極楽を華報となし、証大菩提を果報となし、利益衆生を本懐となす。 たとへば、世間に木を植うれば華を開き、華によりて菓を結び、菓を得て餐受するがごとし。(七祖p930)
と、浄土へ往生する所以は、業因、華報、果報、本懐をあげ、往生浄土の最終目的は衆生を利益することであると云われている。
御開山も「慈悲に聖道・浄土のかはりめあり」とし、「浄土の慈悲といふは、念仏して、いそぎ仏に成りて、大慈大悲心をもつて、おもふがごとく衆生を利益するをいふべきなり」p834と、仰ったと『歎異抄の』著者は述べている。
最近の法話では、ひたすら救いを強調し、往生浄土ということをあまり言わない風潮があるのだが、浄土真宗は往生浄土の真宗である。《生きていることに意味があるように、死ぬることにも意味がある》、というのが浄土を真実とする宗というご法義であった。浄土へ生まれ仏に成ろうとする「願作仏心(横超の菩提心)」は、阿弥陀如来の「度衆生心」の林遊に於ける顕現であり、この如来の「度衆生心」が、林遊においての「願作仏心」としての他力の《ご信心》であった。巷間でいわれる、まるで金魚すくいのようなご法義ではないのである。
(18)
願作仏の心はこれ
度衆生のこころなり
度衆生の心はこれ
利他真実の信心なり
(19)
信心すなはち一心なり
一心すなはち金剛心
金剛心は菩提心
この心すなはち他力なり
なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ
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