不道、不道(言わない、言わない)

林遊@なんまんだぶつ Posted in つれづれ
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当ブログの音声法話にある、梯和上の法話中の「道吾と漸源のエピソード」をUP。
二十代の頃に、この『碧巌録』の話を読み、不道ってどういう意味か判らずに辞書を引いた覚えがある。そして、道という漢字には「いう」という意味があることを知った。報道という熟語がある。
後年、仏道の翻訳語として、道には菩提とか智慧という意味もあることを知ったのだが、日本人は漢字を使っているくせに、漢字の意味を知らないということを痛感させられたものではあった。
と、いうわけでWikiArcの「道」の項に追記した。(*)

『碧巌録』五五の道吾と弟子の漸源の会話。

道吾與漸源至一家弔慰。
道吾と漸源一家に至って弔慰す。
源拍棺云。生邪死邪。
源、棺を拍って云く、「生か死か?」。
吾云。生也不道。死也不道。
吾云く、「生ともいわじ死ともいわじ」。
源云。為什麼不道。
源云く、「なんとしてかいわざる」。
吾云。不道不道。
吾云く、「いわじ、いわじ」。
回至中路 源云。 和尙快與某甲道 若不道 打和尙去也.。
回(かえ)って中路に至って源云く、「和尚、快(速やか)にそれがしのためにいえ、もしいわずんば和尚を打ち去らん」。
吾云。打即任打。道即不道
吾云く、「打つことは即ち打つに任すも、いうこと即ちいわず」。
源便打
源すなわち打つ。
後道吾遷化。源到石霜擧似前話.
後に道吾遷化す。源、石霜に到って前話を挙似す。
霜云。生也不道 死也不道.。
霜云く、「生ともいわじ、また死ともいわじ」。
源云。 爲什麽不道。
源云く、「なにゆえにかいわざる?」。
霜云・ 不道不道。
霜云く、「いわじ、いわじ」。
源於言下有省.
源言下に省あり。
{以下略}

現代語訳

ある日、道吾は弟子の漸源を連れ、死者が出た家に弔慰に行った。漸源はその家に着いて棺を拍(う)って、「この人は生きているのか、それとも死んでいるのか」と、師の道吾に尋ねた。
道吾は「生とも言わない、死とも言わない」と答えた。
漸源「どうして言わないのか」。
道吾「言わない、言わない」。
寺へ帰る途中、漸源はまた問うた。
漸源「和尚、問に答えて下さい。もし言わなければ和尚をなぐりますよ」。
道吾が「なぐりたければなぐっても良いが、言わない」と言うのを聞いて、漸源は道吾をなぐった。

後に道吾禅師は死去した。
漸源は兄弟子の石霜のところに行って、この話をした。
石霜は「生とも言わない、また死とも言わない」と言った。
漸源「何故言わないのか」。
石霜「言わない、言わない」。
漸源は、この言葉を聞いて悟るところがあった。
{省略された部分の意味はネットで検索されたし、説明がめんどくさいから(笑 }

この語録を見ると、『論註』に唯一現れる曇鸞大師が影響をうけたといわれる僧肇の、
天地と我と同根、万物と我と一体、
という言葉が脳裏を横切るのだが、「若不生者 不取正覚」という第十八願の言葉はありがたいこっちゃなと思ふ。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

本願の念仏

林遊@なんまんだぶつ Posted in つれづれ
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ご法話などで、本願の念仏という言葉をよく聴くのだが、どうも語っている坊さんが意味も解らずに喋っているような気がする。
ここでの本願というのは因願の《因》の意で、念仏は《果》である。因である念仏往生の願(第十八願)が成就して、果としての「なんまんだぶ」となったということである。林遊を拯済(じょうさい)する本願が、果の「なんまんだぶ」として可聞可称の法として、しあがったという名号(なのり)である。

だから、なんまんだぶを称えるということは、林遊を、煩悩の迷いから拯済する本願(法)が成就したという事を聞くことでもある。これを法然聖人は、

「たれだれも、煩悩のうすくこきおもかへりみず、罪障のかろきおもきおもさたせず、ただくちにて南無阿弥陀仏ととなえば、こゑにつきて決定往生のおもひをなすべし、決定心をすなわち深心となづく。その信心を具しぬれば、決定して往生するなり。」(『聖全』四 p191 『西方指南抄』「大胡の太郎實秀へつかわす御返事」)

と、云われたのであろう。なんまんだぶという「こゑにつきて決定往生のおもひをなす」のである。
深川和上は、「なんまんだぶの訳はな、そのまま来いよ、間違わさんぞ、待っておるぞ」ということだと示して下さった。
御開山は、『教行証文類』の六字釈で「しかれば南無の言は帰命なり」とし、ややこしい字訓釈を施して「ここをもつて帰命は本願招喚の勅命なり」と、南無(帰命)という言葉は、阿弥陀如仏が「よばふ(「呼ぶ」の未然形+反復継続の接尾語「ふ」)という意味であるとされたのも、法然聖人の意を継承された釈であった。
梯和上は、「なんまんだぶと称えることは、耳に、大丈夫、大丈夫と聞くことですよ」と示して下さった。これもまた、

「心の善悪をもかへり見ず、つみの軽重を沙汰せず、ただ口に南無阿弥陀仏と申せば、仏のちかひによりて、かならず往生するぞと決定の信をおこすべき也」『聖全』四 p614 「浄土宗略鈔」)

と、「ただ口に南無阿弥陀仏と申せば、仏のちかひによりて、かならず往生するぞと決定の信をおこす」の、決定の信である、本願成就の、なんまんだぶであった。
林遊は、子供の頃から、ありもしない信心を求め拵えて、悩み苦しんできた多くの人を見ているせいか、いわゆる「信心正因」という信心をぶち壊し、とらわれのない虚空に解放し開放していく、なんまんだぶという声の荘厳が好きである。それが「触光柔軟」のとらわれのない「ご信心」であった。

ともあれ、本願の念仏とは、本願が成就したという名号(なのり)であり、その念仏が果となって成就したことを告げることが、なんまんだぶ、なんまんだぶと称え聞くことなのであった。これこそが、林遊を育ててくれた、野や山や市井で、なんまんだぶと称え、虚無の奈落へ堕ち、死ぬとしか思えない事象を「往生極楽」だよと「後生の一大事」を教えてくれた、なんまんだぶを称える一文不知の御同行・御同朋であった。

願もつて力を成ず、力もつて願に就く。願徒然ならず、力虚設ならず。力・願あひ符ひて畢竟じて差はざるがゆゑに「成就」といふ。論註 P131

浄土真宗の坊さん方よ、安心とか信心は、なんまんだぶと称えられている上で論じる形而上の理であって、事の上の実践ということを忘れると、本願の念仏という因と果の願力成就という論理が解らないですよと強く思ふ。昨今は、御開山が示された、本願の信は、なんまんだぶと成就したということを聞くということが解らないからどうでもいいけど。
なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ