本願の念仏

林遊@なんまんだぶつ Post in つれづれ
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ご法話などで、本願の念仏という言葉をよく聴くのだが、どうも語っている坊さんが意味も解らずに喋っているような気がする。
ここでの本願というのは因願の《因》の意で、念仏は《果》である。因である念仏往生の願(第十八願)が成就して、果としての「なんまんだぶ」となったということである。林遊を拯済(じょうさい)する本願が、果の「なんまんだぶ」として可聞可称の法として、しあがったという名号(なのり)である。

だから、なんまんだぶを称えるということは、林遊を、煩悩の迷いから拯済する本願(法)が成就したという事を聞くことでもある。これを法然聖人は、

「たれだれも、煩悩のうすくこきおもかへりみず、罪障のかろきおもきおもさたせず、ただくちにて南無阿弥陀仏ととなえば、こゑにつきて決定往生のおもひをなすべし、決定心をすなわち深心となづく。その信心を具しぬれば、決定して往生するなり。」(『聖全』四 p191 『西方指南抄』「大胡の太郎實秀へつかわす御返事」)

と、云われたのであろう。なんまんだぶという「こゑにつきて決定往生のおもひをなす」のである。
深川和上は、「なんまんだぶの訳はな、そのまま来いよ、間違わさんぞ、待っておるぞ」ということだと示して下さった。
御開山は、『教行証文類』の六字釈で「しかれば南無の言は帰命なり」とし、ややこしい字訓釈を施して「ここをもつて帰命は本願招喚の勅命なり」と、南無(帰命)という言葉は、阿弥陀如仏が「よばふ(「呼ぶ」の未然形+反復継続の接尾語「ふ」)という意味であるとされたのも、法然聖人の意を継承された釈であった。
梯和上は、「なんまんだぶと称えることは、耳に、大丈夫、大丈夫と聞くことですよ」と示して下さった。これもまた、

「心の善悪をもかへり見ず、つみの軽重を沙汰せず、ただ口に南無阿弥陀仏と申せば、仏のちかひによりて、かならず往生するぞと決定の信をおこすべき也」『聖全』四 p614 「浄土宗略鈔」)

と、「ただ口に南無阿弥陀仏と申せば、仏のちかひによりて、かならず往生するぞと決定の信をおこす」の、決定の信である、本願成就の、なんまんだぶであった。
林遊は、子供の頃から、ありもしない信心を求め拵えて、悩み苦しんできた多くの人を見ているせいか、いわゆる「信心正因」という信心をぶち壊し、とらわれのない虚空に解放し開放していく、なんまんだぶという声の荘厳が好きである。それが「触光柔軟」のとらわれのない「ご信心」であった。

ともあれ、本願の念仏とは、本願が成就したという名号(なのり)であり、その念仏が果となって成就したことを告げることが、なんまんだぶ、なんまんだぶと称え聞くことなのであった。これこそが、林遊を育ててくれた、野や山や市井で、なんまんだぶと称え、虚無の奈落へ堕ち、死ぬとしか思えない事象を「往生極楽」だよと「後生の一大事」を教えてくれた、なんまんだぶを称える一文不知の御同行・御同朋であった。

願もつて力を成ず、力もつて願に就く。願徒然ならず、力虚設ならず。力・願あひ符ひて畢竟じて差はざるがゆゑに「成就」といふ。論註 P131

浄土真宗の坊さん方よ、安心とか信心は、なんまんだぶと称えられている上で論じる形而上の理であって、事の上の実践ということを忘れると、本願の念仏という因と果の願力成就という論理が解らないですよと強く思ふ。昨今は、御開山が示された、本願の信は、なんまんだぶと成就したということを聞くということが解らないからどうでもいいけど。
なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

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