浄土系思想論

林遊@なんまんだぶつ Post in つれづれ
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高校生の頃か、爺さん(父親)の本箱にあった『親鸞の世界』という本を読んで、鈴木大拙師に興味を持ち、時折禅関係の本を読んでいたものだった。
ふと思ひ出して本棚から『浄土系思想論』を引っ張り出して読んでいるのだが、ドグマ化という視点で面白い文章があったのでUPしてみる。ドグマとは教義という意味だけど、それに囚われて教条主義に陥り自己で解釈することを放棄した立場をドグマ化という言葉で表現した。

 浄土は地球上の存在でない、弥陀は歴史上の人物でない、それ故、論理や科学で浄土や弥陀の有無を論ずべきでないと、正統派の真宗学者はいう。しかしこれだけでは知識人を納得させるわけに行くまい。歴史というもの、科学というもの、空間・時間というものを認めて、そしてそれから出るとか、出ないとか、それに依るとか依らぬとかいってはいけない。今一歩進んで、その歴史・科学・時間・空間等というものは何だということを究めてかからねばならぬ。
何故かというに、宗教生活・宗教意識、または仏教体験・真宗信仰なるものは、対象界を対象界と認識して、その上に出来たものではないのである。始めから超因果・超論理のところにいるのである。空間や時間の世界のまだ出来ぬさきのところに動くものが宗教なのである。それ故、宗教をさきにして、それから因果界に出なくてはならぬ。それを本にして論理を作らなければならぬのである。
それを見ないで、まず科学とか歴史とかを認めて、それから話を進めようとするところに、その人の非論理性があると考える。論理は当にそんな論理を言い得ないところから始められなければならぬ。

 自分等から見ると、真宗の学者は余りに宗学なるものに囚えられている。宗学成立以前に遡ることが出来ないと、宗学そのものもわからぬかとさえ思うのである。体系が出来上がると、その事実は吾等に対して異常な圧迫力をもつ。吾等のすべての思索は、その方法と内容とに於いて、それからの指図を仰ぐことになる。即ち吾等は体系の奴隷になる。先覚者のこしらえた特殊の思想的体系に対してのみならず、この自然的環境及び歴史的環境なるものに対しても、また吾等は甘んじてその奴隷となる。環境たるものに対して独自の思索をやらずに、隣の人や向いの人のいうことをそのままに受け容れて、山が高いとか、風が吹くとか、戦があるとか、千年、二千年の歴史がどうのこうのということになっている。
それも便利には相違ないが、それがため吾等はどんなに錯誤──種種の意味に於いて──を犯して、それから不安の夢に襲われているかわからぬ。一般的なことはとにかくとして、浄土教だけの中の話にしても、先進の学者が編み出した体系に吾等はどれだけ恵まれているかわからぬと同時に、どれだけまた禍せられているかもわからぬ。

 正統派の学者達は出来上がった御膳立を味わうことに気をとられて、そのものがどうしてそう組み上げられねばならなかったということを問はないようである。つまり自己の宗教体験そのものを深く省みることをしないという傾向がありはしないだろうか。お経の上で弥陀があり、本願があり、浄土があるので、それをその通りに信受して、自らは何故それを信受しなければならぬか、弥陀は何故に歴史性を超越しているのか、本願はどうして成立しなければならぬか、その成就というのはどんな意味になるのか、浄土は何故にこの地上のものでなくて、しかもこの地上と離るべからざるくみあわせにたっているのかというような宗教体験の事実そのものについては、宗学者達は余り思いを煩わさぬのではないか。浄土があり、娑婆があるということにたっている。──
これをその通りに受け入れる方に心をとられて、何故自らの心が、これを受け入れねばならぬかについて、反省しないのが、彼等の議論の往往にして議論倒れになって、どうも人の心に深く入りこまぬ所以なのではなかろうか。始めから宗学の中に育ったものは、それでも然るべきであろうが、どうも外部に対しては徹底性を欠きはしないだろうか。『浄土系思想論』p.331~333

初稿が昭和17年の書籍だから、現在の状況とは違うかも知れないのだが、一部の僧分には、依然として何故に浄土真宗であらねばならないかという自己を主体とした考察もなく「出来上がった御膳立を味わう」だけの者がいるのも事実である。

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