浄土真宗では信心正因をやかましくいうけど、これって《因》だから当然《果》も云わんとあかんわな。
最近の浄土真宗の坊さんは、信心獲得とか信心決定とかの《因》については喧しくいうけど、何故か《果》について語るのを仄聞したことがない。
真宗大谷派の坊主は、なんまんだぶを称えないし、宗派名が浄土抜きの「真宗」だし、聞法の総道場が真宗本廟という名の御開山の《墓所》になってしまったのでどうでもいい。
ともあれ、浄土真宗のご法義における「信心正因」という因のテクニカルタームは、その因が果になることを前提とし目的とした概念であろう。しかるに、その果を説かずに因のみを説くだけで門徒が納得するのだろうか。少なくとも昔の坊さんは、倶会一処という浄土を説いたものである。
御開山は、
「捨穢忻浄 迷行惑信 心昏識寡 悪重障多(穢を捨て浄を欣ひ、行に迷ひ信に惑ひ、心昏く識寡く、悪重く障多きもの)」
という二元を提示し、この娑婆から浄土へ往生する浄土を教えて下さったのだが、生のみで死ぬということの意味と世界を知らない坊さんには、もっと真面目にやって欲しいと思ふ。
(2)
南天竺に比丘あらん
龍樹菩薩となづくべし
有無の邪見を破すべしと
世尊はかねてときたまふ
龍樹菩薩は相対二元論を超えた有無を超えるという概念を示して下さった。
その有と無を超えたところを説く浄土真宗のご法義は、有無を越えた往生浄土の真の宗というご法義です、どうか《因》ばかりでなく《果》の浄土の躍動する覚りの世界を説いて下さいましませ。>生き方を説くばかりで死の意味を説く二元論の宗義であるはずの浄土門の坊さん方
穢土と浄土という二元論(善導・法然教学)を包みこむのが本願力回向という一元的なご法義(論註教学)であるからといって、生の意味を問うばかりで、死の意味を問わない教学は死んだ教学であろうと思ふ。
田村芳朗氏は、御開山の浄土思想を「相対の上の絶対」という補助線で考察しておられたが、御開山の書を読むときに首肯すること大であった。もちろん補助線であって御開山の思想の一端であるが、『論註』を読む場合に参考になるであろうと思ふ。
なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ
リンク:『仏教の思想5 絶対の真理〈天台〉』