終活(しゅうかつ)とは「人生の終わりのための活動」の略であり、人間が人生の最期を迎えるにあたって行うべきことを総括したことを意味するから「終活」というそうである。
日本人の思想の基底に、人に迷惑をかけてはいけない、という発想がある。これを自分の死後にまで拡大し、死んでも他者に迷惑をかけたくないとの発想から「終活」という社会現象が生まれてきたのだろう。もちろん自らの希望としての遺言書というような社会的形式を頭から否定する気はないのだが、いわゆる終活という社会現象を見るに、ようするに死を縁とした経済的利得を計る輩に騙されているのではなかろうかとも思ふ。
そもそも、死によって自己の存在が無に帰すという現代人の考え方からすれば、自己が存在しない世に対してまでも発言権を確保しようという行為はおかしいし傲慢であろう。死という自己の存在しない後生(こうせい)には、残された者の「後の世」があるだけで、そこには私はいないのであるから、死者に発言権はないのである。
仏教の生死観では、お前の命の歴史は長いという。曠劫(こうごう)という大昔、時間の果てから始まったという。死んでは生まれ死んでは生まれして、六道(ろくどう)という迷いの世界を流転輪廻して来たという。そしてこれからも六道を経巡(へめぐ)っていくのだとする。輪廻(梵語サンサーラ(saſsāra)の漢訳)を生死をと訳した経典もあるから生死(しょうじ)とは、弘法大師空海が、「生生生生暗生始 死死死死冥死終(生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めに暗く、死に死に死に死んで死の終わりに冥し)」『秘藏寶鑰』といわれたように、生に暗く死に冥い凡夫の流転を示す言葉でもある。
つまり、仏教における死とは、私が死んだ後の後生(こうせい)ではなく、私自身の死の後の生、後生(ごしょう)が一大事なのですよ、といふのである。
このような視点から終活という行為を考察するに、人生の終わりを迎えて目前にせまる死を静かに受け止めることができないから、死を紛らわせる便法として終活という行為にはしるのであろう。眼前の死を否定するために生きてきた過去を振り返る行為でもある。それは、死という虚無の断崖絶壁からおちる怖さから眼をそむけ逃げる行為でもあろう。自らの生きてきた生にのみ焦点をあて過去の行為による思い出にひたる後ろ向きで死を迎える活動が終活でもあろう。後ろ向きになって崖からおちる死である。
浄土真宗では、死は、浄土への往生(おうじょう)(生まれて往く)という。死ぬのではなく浄土(=阿弥陀如来のさとりの世界)へ生まれるというのであるから、そこには死はない──もちろん死ねば無条件で往生成仏というのではない。無条件の救いであるということを《信知》し、仏の名号を聞くことが本願の言葉である──。
死ぬでなし 生まれかはれる浄土ありと
聞けばたのしき 老いの日々なり
という句を詠んだ先人がいるが、このような人の眼には、死は虚無という断崖へおちるではなく、喜びも悲しみも自らの往生浄土(=往生即成仏)の縁(えにし)となるのであった。往くべき世界、浄土を持てるものだけに開示されるご法義である。まさに前向きに、まるで 竹膜が隔てるほどの地続きのような浄土を受容しているのである。必至無量光明土(かならず無量光明土に至る)の、仏の智慧の世界へ往生するのである。
そして、これが浄土真宗に於ける《終活》という言葉の意味であり、後生(ごしょう)の一大事として我々の先輩が伝統してくださった言葉であった。
生きることに意味があるように、死ぬることにも意義を見出して下さったのが、往生浄土を真実とする教えであった。ありがたいこっちゃな。
なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ
関連:→後生って何やろ