おそだてとは、浄土真宗の門徒の間で使われる言葉で、育てられたの意である。阿弥陀さまのご方便のおてだてによって、本物のご法義を領解するほどになった意をいう。
本願寺派の僧分であった与謝野礼厳には、
仏浮き沈む われを幾代か 待ちませし
心ながきは 阿弥陀 釈迦牟尼
の句があるそうだが、浄土真宗の仏の覚りを得る為の「全分他力」という教説は解りにくいから幾代もかかることもあるのであろう。浄土真宗では、それを「お育て」という言葉で表現する。
それは善巧摂化という本願力回向のご法義であるが、善巧方便のお育てに出遭った者にとっては、方便ありがたしと、愚者であることが誇らしく思えたりもするのであろうか。
ともあれ、暇なのでwikiarcにUPしてあった、方便の項目に若干の追記をしてみた。
仏教では方便という用語は各宗で種々に考察されている。浄土真宗では、善巧方便(ぜんぎょう-ほうべん)と権仮方便(ごんけ-ほうべん)の二種の語がよく用いられている。ところが、この二種の方便に対する誤解が多い。『無量寿経』に説かれる阿弥陀仏の四十八願中に十方の衆生に呼びかけられる願には、第十八願と第十九願・第二十願という三種の願がある。この三願中の第十八願は阿弥陀仏から回向される行と信を説くので阿弥陀仏の随自意のご本意の願である。 そして、第十九願・第二十願は、この第十八願を受け容れられない者の資質に応じて(随他意)、真実の第十八願へ誘引する方便の願であった。真実へ導くために仮に設けられた願が第十九願・第二十願であった。
親鸞聖人が、『教行証文類』で、わざわざ「化身土巻」を撰述し、第十九・第二十の方便願を取り上げられるのは、誘引の意もあるが、真意は仏の本意(随自意)にあらざることを示して、これを廃し捨てさせるためなのであった。この意を窺うために、『顕浄土方便化身土文類講讃』(梯實圓著)より、方便に関しての章を抜書きして権仮方便と善巧方便について提示する。なお、註の各聖典の頁数等は本書のものであり、フリガナ、強調および◇マークから以後の註や文中のリンクは、利便のために私において付した。
→「ノート:方便」