寺と教会

林遊@なんまんだぶつ Posted in つれづれ
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FBの杉生 値さんの投稿に、元旦会のあとかたずけをしていると、境内で寺の建物に入り参詣する方法が判らず迷っていた家族に声をかけ、本堂へ招じ入れた話があった。
キリスト教では教会は信仰の証(あかし)であると言われる。いわゆる神の存在と神への信仰のリアリティ(証)として教会の存在を認識把握しているのであろう。クリスチャンにとっては、市井に存在する教会が神の救いのリアリティとして受け容れられてきた歴史があるのであろう。
ともあれ、FBの投稿によってかってSNSで記した日記を想起したので転載してみる。

ホテルのカフェから、下の道路を見下ろしている。
ティーカップを前に、気だるいウイークデーの午後。

ふと、向こうから若い男女が歩いてくるのが視界に入る。
恋人どうしなのだろうか。
二人はうつむきかげんで、ゆっくりと歩いている。
まるで、行き交う人々の流れに逆らうように、ゆっくりと歩いて来る。

二人が立ち止まった。
それは、ホテルの前にある、小さな教会。
カソリック教会であろうか、正面にはクリスチャンのシンボルが掲げられている。

二人は、教会の前で、何か話あっている。
やがて、女の方がこくりとうなずいて、二人は教会の中に消えた。

まるで、そこだけは、時間が止まった世界のように見える空間。
喧騒とした街の中にある、ひっそりとした教会。
ふたりは、教会に何を求めて入ったのだろう。

静かな、ホテルの午後のティールーム。
ガラス一枚を隔てた、小さなチャーチを眺めながら、ふと、若いふたりに興味を覚える。
なにか、辛いことや悩みごとがあったのであろうか。
教会に、若いふたりの求めるものがあることを願う、私がいた。

二杯目のティーを飲み干したとき、さきほどの男女が教会から出てきた。

何かが、ふっきれたのか、ふたりの足取りは軽い。
やがて雑遝に中に、手をつないだふたりは消えていった。

教会の中で、何があったのだろう。
それは、ふたりと、十字架上のキリストのみが知ることであろう。

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だいぶ昔だが、このような内容のエッセイを読んだ記憶を思い出した。
たぶん、筆者の外国旅行中のワンシーンであろうが、キリスト教の教会の存在と、日本の仏教寺院との差異を考えさせられるエッセイだった。

キリスト教には、「神との対話」という言葉があるが、仏教では「仏との対話」という語はあまり聞かない。
仏や神との対話はモノローグであり、自己の内面を吐露する自己自身との対話であろう。
神は人格神であり仏教では人格神を否定しているから、モノローグが成立しにくいという事情もあるのかも知れない。

昔の女性は、御仏壇の前で泣いた。
もう少したってからは、女性は三面鏡の前で泣いた。
現在は、さしずめノートパソコンの前で泣くのだろう。
いや、携帯電話の文字を眺めしながら泣くのかも知れない。
人は、何かを前にして、泣き、泣けるのである。

ひょとすると、人間関係が複雑になっている現代では、泣くという行為そのものが出来なくなってきているのかも知れない。「十分に悲しみ」、そして「充分に泣ける」場所は、安全でなければならない。
人が安心して泣ける場所、そして、悲しみを生きる力に変換にできる場所。

いま、仏教に、本当に求められているのは、このような寺院の役割かも知れないと、思っていたりする。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ

「2011年06月27日」

だいぶ前だが、門徒会館を建てた寺が告知するキャッチフレーズを頼まれたことがある。
3種類ほど考えたのだが「みなさんの信仰が形になりました」というコピーを住職が気に入って採用したことがあった。
歴史的にみれば浄土真宗の寺院とは、親鸞聖人御消息に「聖人(源空)の二十五日の御念仏も」p.808とあるように、門徒が法然聖人をしのんで、なんまんだぶを称える場所(道場)が濫觴(らんしょう)であった。
その意味に於いては、御開山が「聖道の諸教は行証久しく廃れ、浄土の真宗は証道いま盛んなり」p.474と示しておられるように、なんまんだぶの声がこだまする空間こそが、本願の行を行ずる「証道いま盛んなり」の道場であった。一人ひとりの、生き方や思いや経てきた苦悩を論ずるのではなく「同一念仏無別道故(同一に念仏して別の道なきがゆゑに)」p.309が浄土真宗という宗教である。
浄土真宗の寺院が、念仏の道場であった頃は門徒にとっては「遠通夫四海之内皆為兄弟也(遠く通ずるにそれ四海のうちみな兄弟たり)」p.309という想いであったから、寺が私の宗教上の家であったのである。門徒の表現では「阿弥陀さまの親さまの家」であった。ゆえに、寺の輪灯が傷んでいるからウラが銭(ぜん)出すさけ、親様にご不自由させんようにと懇志を提供したのであった。
そのような意味に於いては、浄土真宗の寺は、なんまんだぶの道場であり、なんまんだぶを証(あかし)するロケーションであった。
知愚の毒に毒された左巻きの、一声のなんまんだぶも称えない坊主には想像も出来ない世界なのであった(笑

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ