信巻別序の冒頭で、
それおもんみれば、信楽を獲得することは、如来選択の願心より発起す。(*)
と、あるのだが不思議な表現だな。
如来選択の本願より発起す、なら、信楽は本願から発起するのだが、願心より発起すという表現は不思議である。
因位の法蔵菩薩の願心(菩提心)から発起するというのであるから、まさに法蔵菩薩の願心と等しいところから発起する信楽(信心)であると御開山は仰りたいのであろう。
御開山は、第十八願成就文の聞を釈して、
「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。(*)
と、されるのだが、何故(ゆえ)に本願が建てられなければならなかったという仏願の生起のところから考察しろとのお示しであろう。
深川倫雄和上は、出来上がった本願を見ても阿弥陀さまのお心は解りません、何故このような願をお建てになったかというところが大切です、と常々仰っておられた。因位の法蔵菩薩である阿弥陀さまの願心のところが大切ですとのお示しであった。本願があるから信ずるのではない、わたくしという煩悩具足の衆生がいるから、林遊の煩悩を材料にして建てられたのが五劫思惟の本願であった。
浄土真宗の布教使は、出来上がった本願を、信じなさい信じなさいと煩いのだが、これでは「アナタハ神ヲシンジマスカ」というキリスト教の信と同じではないか。世俗における信とは未だ実現していないことをまえもって確信することをいうのだが、これは浄土真宗でいうご信心とは雲泥の差がある。
御開山は、讃阿弥陀仏偈を和讃して、
(3)
弥陀成仏のこのかたは
いまに十劫をへたまへり
法身の光輪きはもなく
世の盲冥をてらすなり
いまに十劫とされたのだが、なんまんだぶと称え耳に聞こえる時、仏願の生起と本末がわたくしのものになるのであった。こういう論理展開は賢い真宗坊主には意味不明だろうけど、莫迦の林遊には整合性が取れているので、ありがたいこっちゃになるのであった。いまめがはしく、帰命尽十方無碍光如来、ありがたいこっちゃ。
(82)
信は願より生ずれば
念仏成仏自然なり
自然はすなはち報土なり
証大涅槃うたがはず
なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ